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1_真夏の夜の夢

あれは何年前のことだろうか
茹だるような熱気が夜の角へ消え始めた頃
空席の目立つ電車へ乗り込み
ひとり、水族館へ向かった
人が少ないせいか冷房の効きすぎた車内
汗が引いて薄ら寒い体を携え、水族館へ歩いた

家族連れ、恋人同士、同じおひとりさまが並ぶ背中の間で待ち
「大人ひとり」のボタンを押して発券して入館する、その横を
さめの絵がかかれた白いシャツをきた男の子が一目散に館内へ駆けてゆき
大きな水槽の前でぴたりと足を止めた
「さめ、ここ!」と振り返る男の子
一瞬さめに会いに来たわたしに放った言葉かと思ってしまうくらい
男の子の目はまっすぐわたしを見つめたような気がした
もちろんその目に映っているのは彼のお母さんなわけだが
小さく「教えてくれてありがとう」と答えてみた

大きな水槽の前にわたしも足をとめる
さめシャツ君が指さす先には素早く旋回し水中を泳ぐアカシュモクザメ
たくさん他の魚が泳いでいるのにふたりとも目で追うのはさめだけ

わたしは何故か、さめが好きだ
理由をきかれてもしっくりくるような答えはだせない
でも、好きなのだ
見た目からして獰猛な生物で、実際に食べられそうになったら
「さめが好きだなんていうんじゃなかった」と思うだろう
でもどうしてか、さめが好きな自分がいる
もしかしたらそもそも理由はないのかもしれない

大きな水槽を後にして館内を順路通り歩み進める
水族館へ海洋生物たちに会いにきたはずなのに
同じ空間で夜の水族館を楽しんでいるお客さんの笑顔に目がいってしまう
空いた電車の車内よりも、この館内の方が圧倒的に人で溢れているのに
電車では感じえなかった孤独感が打ち寄せる

それでも、わたしは誰かを誘ってあの真夏の夜に
水族館に来ることはしなかっただろう
人のため背びれを動かし泳ぐわけではないアカシュモクザメと同じ
イワシの魚群のように群れるわけでもなく
ただあの日は、一匹、深く海へもぐってゆきたくなった

今はもう記憶の一部しか語ることができないが
あの真夏の夜が、夢でなかったことは確かで
ただただ鮮明にさめシャツ君の輝く目と声は覚えている



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