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神を信じず、人間を拝む者は獣の刻印受けし者

だいたい簡単な事、ただ人間を崇拝しなければいい、拝まず崇めない、たったそれだけの事がなぜできないのか。そしてなぜ偶像を拝むのか、何かの像、物、イメージ、絵などをありがたい物のように振る舞う、それら全ての行為が偶像崇拝であり、真に神など信じていない、人間が作った物を拝んでいる行為。

キリストも自分を拝めなどとは言っていない。勝手に人々がそれを偶像に奉り拝んでいるだけで、十字架や像、それは神ではない人間の作った何かである。そして人間は神ではない、何処にいるどんな人間も、血筋も血族も、どんな役割を持つ人も神ではない、だから拝む対象とはならない。

その人間を拝む行為、個人崇拝自体がコミンテルンカルト思想となり、人間による支配下となる。人間の教祖様など拝まず神を拝めと、心で感じろと、その道を歩けと言っていたのがキリストだった。

拝むのは王じゃない、皇族じゃない、教皇じゃない、教祖ではない、そして人間が作り出した物ではない、偶像崇拝はやめろと古来から言われ続けてきた。しかし人々はそれをまったくやめようともせず、改めようともしない、その行為が悪魔崇拝の行為であるとまったく解っていない。

人間を拝むのはどういう事なのかはっきりと言えば、それは拝金主義者の支配下に下ることで、まさにそれが自分がゴイムである意思表示に他ならない。人間の支配者は、支配下に置いた人間から必ず搾取する、それが人間である。世界中にいる聖職者、口悪く言えばクソ坊主がどれだけ如何わしい我欲からの汚らわしい行いをしてきたか、インターネットが普及した今なら誰もが知っている。

そのような者どもごとき拝む行為自体が、自身がそれ以下であると証明しているようなもので、なんと愚かで哀れなのか、人の心は成長させなければならない、それが魂の進化であり、愚かなる者を拝めば、その拝んだ者はそれ以下だと言うこと。

そんな人々に対し、どうしようもない憤りを感じる心、これが真の神の心を感じている預言者の気持ちである。

自分は預言者とは言っているが、自分を拝めなどと絶対に言わないし、拝ませはしない。本当の預言者はそんなものじゃない、物欲色欲金銭欲、拝金主義などには惑わされない強い意志を持つ。それができないものは全て例外なく偽預言者、そんなものに従っても魂は救われないし、決して天に誘われることはない。多くは地を這うだけの獣に成り下がって終わるだけ。


崇拝と愛する事は違う。愛は神の心を使う、崇拝は蛇の心を使う、教祖になること、それを拝む事は蛇の言葉に従うのと同じで、その逆として愛に従う事が神の心を知り、神に従う事になる。その愛こそが神の言葉であり、それを否定することが蛇の言葉、悪魔の囁きとなる。

確かに蛇に従えば、この蛇が魅せる仮想現実社会の中、拝金主義による支配によって物質的な価値を得られるかもしれない、しかし魂はどんどん侵食され愛を失う。愛を失うとは神の心を失うと言うこと、拝金主義者が愛よりお金に重きを置くこと、それが神の心を失っている状態。その拝金主義者、通貨の支配者である人間、悪魔崇拝者からのプレゼントを受け取るのが悪魔に魂を売る行為となる。

だからこの世界、現代の社会でも、拝金主義者の成功者は決して天の国へは誘われない。

それをキリストがはっきりと言っていた。

「金持ちが天の国に入るより、駱駝が針の穴を通り抜ける事の方が容易」

この言葉は真実である。決してコミンテルンカルトの悪魔崇拝者達が長い間プロパガンダ洗脳し植えつけてきた固定概念、認知バイアスではない、ダブルスタンダード、偽旗作戦で植えつけられてきた共産主義思想などと言う馬鹿げた主義の話ではない。

悪魔崇拝者達は神による言葉を欺くぺてん師であり、古来から蛇、悪魔は嘘が巧みで人の心を惑わし弱味に付け入り、人の心を操る術に長けていた。それはエクソシストが対峙する、悪魔にとりつかれてしまった人々の言動そのもので、それは蛇の言葉、悪魔の囁きに心を蝕まれてしまった人達の偏執病、パラノイアである。




地を這う者に成り下がった堕天使ルシファーは人の心を蝕む言葉を使う、それは破壊の言葉であり呪いの言葉となり人の心を闇に閉じ込め続ける、破壊の言葉を使い人の心を操る、それが悪魔の支配方法。その悪魔を祓う方法が聖書を語る事となっているが、聖書とは神の言葉であり、それそのものが愛なので悪魔と対峙するために使われていた。

悪魔を祓うのは愛の言葉である、難しく考えずとも、そんな簡単な事だった、だから神を信じることが愛を信じる事でもある。たとえ聖書や聖水が無くとも、真に神(愛)、を信じる者なら、悪魔にとりつかれた者から、その悪魔を祓うための言葉が使えると言うこと。必ずしもユダヤ教やキリスト教、イスラム教の祭典、聖書を活用しなくとも、誰でも愛を信じられるなら悪魔祓い師、エクソシストになれる。

人の心を救うのは悪魔の言葉ではない、愛の言葉である。それは絶対に揺るぎない真実。


だからインターネット上に溢れる心ない言葉、差別的で許しなき言葉、偏見激しいカルト陰謀論を信じてしまったパラノイアから出てくる言葉など、全て例外なく悪魔の言葉となる。それを打ち払うのが愛の言葉。

悪魔の言葉は次から次へと襲ってくる、降りかかってくる、それにたえて神の言葉、、愛の言葉で対抗しなければいけない、そこに羞恥心があると、それは蛇にもたらされた悪魔のものなので、簡単に悪魔に負けてしまう。

羞恥心とは悪魔の囁き(パラノイア)、の原因であり、それが悪魔の心なので愛を恥ずかしがり嫌悪する気持ちをもたらすもの。それに気がつける人なら、自分の言っている話の深い意味が解るはず、それは誰もが必ず経験している感情で、人の心を病ませている原因となる。どれだけ自分の中にある悪魔の心が、神の心、愛を嫌悪しているのか、その心に聞けば解る。

冒頭で述べた個人崇拝、無神論、自分が神とするスピリチュアル、ニューエイジ思想、カルト宗教は全て悪魔崇拝思想。

だから人間を拝む行為そのものが、ヨハネの黙示録で預言されている獣の刻印、人間の刻印666である。











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