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45歳・教員の「越境学習」 ~日本財団での1年間~(1)

突然の電話

「立田さんには、4月からの1年間、企業等への派遣研修に行っていただきます」
 教育委員会の担当者から学校に電話がかかってきたのは、3月中旬のことだった。
 私は大学を卒業後、すぐに横浜市立小学校の教諭として働きはじめた。それから20数年間、何度か市内での異動はあったものの、小学校以外の職場で働いたことはない。私にとって、その連絡は晴天の霹靂だった。
 と言いたいところだが、予感がまったくなかったわけではない。当時の横浜市教育委員会では、毎年、副校長昇任試験の合格者の中から数名を選んで、企業に1年間派遣をするという研修制度があった。
 前年の秋、私はこの昇任試験に合格していた。合格発表から数週間後、およそ100名の合格者を対象にした説明会に参加した際、翌年度の人事についても説明をされた。そのなかで、
「大部分の方は、4月からすぐに副校長として勤務をしていただくことになります。また、一部の方は4月からも現在の学校に継続して勤務し、OJTをしながら翌年以降の昇任に向けて準備をしていただきます」
 という話があった。
 さらに、「残った4名程度が企業へ派遣される」という話もあったと記憶している。100名中の4名ということは、お年玉付き年賀はがきで切手シートが当たるよりも、やや高い当選確率ということになる。
 いずれにしても、説明会で「大部分の方は、4月からすぐに副校長」と聞かされていたので、年度末で勤務校を去ることになるかもしれない、という覚悟はしていた。だったら、学校を離れて1年間の研修をするのも悪くないかもしれない。具体的に何をやるのかは不明だが。

 と、ここで少し引っかかることがあるのに気づいた。これまで、この研修の派遣先は、それぞれ横浜市内にある百貨店、大手書店、鉄道会社などだったはずだ。しかし、この担当者は冒頭に「企業等への派遣」と言っていた。百貨店や書店ならば「企業」と一括りにできるはずである。「等」とは何のことか? そう思っていると、担当者が告げた。
「それで、立田さんは4月から、東京の虎ノ門にある日本財団に行っていただきます」
 日本財団? 当時の私にはその名前に聞き覚えがなかった。それを察したのかどうかは知らないが、担当者が付け加えた。
「日本財団の正式名称は、財団法人・日本船舶振興会です」
 次の瞬間、私の頭の中には、子どものころに見た日本船舶振興会のテレビ・コマーシャルがよみがえっていた。「戸締り用心、火の用心」と声を張り上げながら、大相撲の人気力士だった高見山や作曲家の山本直純氏を先頭にした一団が練り歩く。そして、そのCMの最後に「一日一善」「人類は皆兄弟」などの台詞を発して圧倒的な存在感を示していたのが、当時、日本船舶振興会の会長だった笹川良一氏だった。
「実は、来年度からこの研修の派遣先を一新することになりまして。ちなみに、立田さん以外の3人の方の派遣先は、A社とB社とC社です」
 担当者は、おそらく誰もが知っているであろう有名企業の名前を3つ挙げた。いずれも、いわゆる教育産業の企業である。しかし、日本財団と教育にはどのような関係があるのか? 私だけ仲間外れではないのか? まあ、とりあえず「等」と言った意味はわかったのだが。
 その後、私が派遣研修に行くことは校長に連絡済みであること、3月中に事前の打ち合わせをするために日本財団を訪問すること、そして、そのためのスケジュール調整を改めて行うことなどを告げられて電話は切れた。
 受話器を置くと、私はすぐに職員室の共用パソコンで「日本財団」を検索した。今ならスマホで調べるところだが、これは今から15年前の話である。当時は、まだスマホは普及しておらず、また、職員室には共用のパソコンが数台あるだけだったのである。

越境学習

 越境学習という言葉がある。これは、自分が所属している職場などの組織を離れ、異なる環境に身を置くことによって、新たな視点などを得る体験的な学びのことを指す。
 当時、私は45歳。それまで学校のことしか知らなかった私が、この日本財団での越境学習で何を学び、どのような視点を得ることができたのか。
 あれから15年経った今、振り返ってみたい。(つづく)

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