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迎えに行きたい未来


あることで 気持ちが参ってしまって それを友人に聞いてもらっていたら、

あなたが迎えに行きたい未来は何?

って 聞かれた。

答えられなかった。

友人は 自分の迎えに行きたい未来のことを聞かせてくれた。私は彼女が 既に その未来の中に生きていることをなんとなく感じながら、その言葉を聞いていた。


私は 正直 その時 ある人の振る舞いに対して 憤りのようなものを感じていて、
しかも その人が 私の迎えに行こうとしていた未来を鼻で笑うような、そういう言動をぶつけてきたことへの悲しみも感じていたので
私は 未来どころか、今を生きる気力も捨てたいなと思ってた。気力を無くしてはなかった。だって 気持ちを打ち明ける気持ちが残ってた、つまり生きたいって気持ちは残ってたってことだから。

あれから時間が経って。
私は
ずっと昔から、
既に
迎えに行きたい未来の中にいる、

ということを改めて確認している。

苦しみも悲しみも、迎えに行きたい未来を潜在的にでも分かっているからこそ感じるもの。

たとえば、
教育に携わるものでありながら、弱いものを嘲笑うことができる人とか
言葉に携わるものでありながら、言葉をナイフとして使うことを憚らない人とか
人のからだや心を癒す仕事をしながら他者の心を傷つけることを平気だと思っている人とか

そういう人との関わりで 傷を負った心に 私はアクセスする機会が多い仕事をしているのだった。私が治すのではない。最終的には、傷を負った本人が 自分自身で 自分の光を見出していく。もともと強い人たちだ。だからこそ、傷つけられてしまうのかもしれないとさえ思う。そして、そういう人たちは優しい。それは、「ひとのエネルギーを吸い取りたい」人にとって 格好のターゲットになるということだ。


吸い取るのが上手な人は、自己弁護の理論も持ってるから、自分を悪者にせずに済むように 振る舞う。そう、絶対に傷つけた相手には謝らない。それどころか、悪いことをした、とも思わずにすむだけの理論武装ができているのだ。

そういう人にも何か事情はあるだろう。でも、それが人を傷つけていい理由にはならない。


私は 10代の頃から ずっとこのことを、言葉や形を変えながらも、訴え続けていたことに気づく。そして、今 似たような思いの人たちと 自分が思っていた以上に繋がっていることに気づく。

そうか、自分がしてきたことが 全部繋がっているんだって知った。一時期 参ってしまった理由は「事情があるかもしれない人に知らぬ間に歩み寄ってしまっていて、予期せぬ言葉に打ちのめされたこと」だったのだ。

今 ここで具体的には書いていないけれど、私は、「過去」からずっと、「今」と「未来」を生きてきた。

私がしていることは 極めて限られた人への心のケアに過ぎない。でも、この世界には 傷を負った人に寄り添う営みを続けている人が たくさんいる。

そう。私が未来を迎えに行くというよりは 未来がずっと私の気づきを待っていてくれたんだろうなと思う。日々 じぶんの心の声に耳を傾けていれば、未来を見ることができるのだろう。


















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