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ずっと「怖い」って 言いたかったのかもしれない

「恐れ」を感じるのは 新しい世界に足を踏み出そうとしている証だと思う。

体が その恐れを訴えてきたとき、なるほど「私は今怖がっているな」と思うと同時に、「これを待ってたんだ」という ちょっとわくわくする気持ちさえ感じた。そこにいたるまでの数日の流れで そうなるのではないか、と思っていたから。

ずっと 他者の言い分に嫌々ながら 反論せずに 「自分がおかしいのかな。私、変わり者なんだろうな」と思いながら やってきたんだけど、その、私にダメ出ししてくる他者たちの「普通のやり方」の方が 私が思う、大事なものをいっぱい無視してしまっていることに もう ついていけないなあと思った。

かといって、「私のやり方を大事にすると浮いちゃうかな。孤立するかな」と自分のやり方をやり通すことについての不安がずっと心に巣くっていた。でも、みんなについていくことで得られる安心なんて、いっときのものでしかない。状況の変化に振り回され続けることでしかないのだ。周りに合わせ続けることで、自分が「これでいけるはずだ」と確信しているはずのものを後回しにする理由なんてない。人に合わせて、自分の確信を無視して、しかも他者のやり方が間違っているのなら、自分の確信に従って、とにかくやってみて、間違っていた、そういう方がいい。

自分のしたいことをやって、孤立するかもしれない、それが冒頭に示した「恐れ」だった。

その怖さを自覚して「怖い」ということを認めたことで、私は次に進むことができる気がした。孤立するかもしれないけど、自分がすべきだと思うことをする毎日を送る、それが私にとって「進む」ということだ。

「怖さ」を認めたから、次に進める。

そうして、進んでみると、案外「怖くない」。それどころかすがすがしい気持ちだ。他の人が「間違って」いようが、私は私で進むことができるからだ。しかも、その方が、仕事も何もかもスムーズに進む。だって、自分がしたいことなんだから。そして、楽しい。夢中になって、目の前のことに取り組んでいる自分がいる。だから、したことも自分の血となり肉となっている。

「怖い」を認めて、そのうえで次に進むことができると、一歩も二歩も「本来の自分」「自分の核心」に近づくことができるんだな、と実感する。

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