「苦しんでいる時がぁ、一番生を実感するぅ」という話

人間、労働にしろ学業にしろ、何かに取り組みながら疲れとか辛さとかを感じている時初めて自分が"生きている"感を得られるのであって、辛さからひたすら逃げる選択肢をとってきた人間は、だんだんその生を実感する瞬間を失っていくのだと思う。そういう人間は失敗の経験がない、あるいは少ないから、より失敗や苦痛に対する恐れを増幅していく。こういう悪循環の下に、生を実感する瞬間を失っていく類の人間は、自分が生きる現実の生活に「現実感」を感じなくなっていく。そこで人々は他人の幸せや豊かさに理想の現実を見るわけである。一方で、そういった人間ほど、自分と他人は違っているのが当たり前で、自分は自らの人生を全うするしかないことを理解しているから、何もない自分の現実を嫌悪する方向に進んでいくのだと思うし、その帰結の一つがうつ病などの精神疾患であるだろう。
このような状況に陥った人間は、多くの場合自分に欠けているものは幸せや豊かさによって満たされることだと考えているから、食欲や性欲、承認欲求に身を任せて贅沢をしようとするが、本来自分に生を与えてくれるのは苦痛であるから、一向に満たされることなく、贅沢というよりは浪費を繰り返し、自らの生の実感を回復することもない。
しかし、苦痛が自分に生の実感を与えてくれることを知ってしまうことが、ポジティブな方向に働くというわけでもないのが皮肉なポイントであり、目の前の、すぐに手に入る苦痛を得て、一時的な現実感を獲得しようとする行為は逆に自らを破滅に向かわせる。リストカットやオーバードーズが良い例で、一時的な苦痛による生の実感によって、自らの意識と現実との乖離を断続的に抑え続けることになるわけである。このような行為に、最終的な帰結はなく、根本的な解決にはならない。
さらに皮肉なことは、苦痛が現実感を与えてくれることは事実であるから、これらの行為を全面から否定することができないということである。



うーむ、非常に難しい問題だし、途中から私の思考もよくわからなくなってしまったからここで終わり。


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