また会えたら、笑顔で会いましょう

3月の最後の金曜日。

実家の部屋で東京事変や星野源を聴きながら、細かく残った仕事や部屋の片づけに手を付ける。
数字がピッタリ合うと何て気持ちの良いことか。

月曜日の最終出勤日を終えて、穏やかな日々を送っている。

新しいプロジェクトが動き出すはじまりのタイミングに呼んでもらったり、お世話になった方に会いに行ってご飯を食べたり、家族と他愛のない話をしたり、こんな風にゆっくり過ごせるのは仕事をしていなかったニートの時期か入院していたときくらいだな、と思う。

ずっといた場所から離れる寂しさはまだまだ拭えないし、最近まであった当たり前が無くなっていくのが実感できるからこそ、心の中の隙間が広がっていくような感覚がじわりじわりと増していく。

別に日々の中でそんなに頻繁に会うことは無かったし、家では一人だったから大丈夫かもしれないと考えていたけど、そうではなかった。

何となく分かってはいたものの多分、正面から受け取ることが出来なかったから自分をごまかしていた。

ほんのちょっとでも寂しさがこみ上げてきたら、「すぐ会えるよ」とか「行きたいときに行けるし」とか、そんな風に訪れる悲しさをかわす。

数日前、久しぶりにバスに乗って出かけた日にシャッフルしたiPhoneから流れてきた『グローイング アップップ』を聴いたとき、思わず涙が出た。

本当はこれまでいた場所から離れて、ひとりでやっていけるか不安と心配だらけだったし、何より怖い。

だけど、たまたまこのタイミングだっただけで今の仕事は永遠ではないことも、別れが来ることも早かれ遅かれこんな日がいつか来ることも、何となく予感していた。

そんな中で動くときが訪れるとしたら「今」なんだろうな、と思う出来事が沢山あって、最後の最後は誰にも言わずに自分で決めた。

迷惑をかけた方も沢山いて、とても申し訳なかったし(謝っても謝り切れないほどですが)それでも私のことを応援してくれて、新しい門出を祝ってくれる。

人生の先輩たちの姿や背中を見て、なんてありがたくて幸せなことなんだろう、と心が震えたし、もっと何かご一緒したかったとも思った。

今すぐは返せなくても、数年後、ずっと先になるかもしれないけど。

目まぐるしく過ぎていく毎日の中で、ふと立ち止まると歩いてきた道の上にはまだ芽のままのものも、花が咲いたものも、実をつけたものも、残念ながら枯れてしまったものもあったけど、それらは誰かの手を借りて共に汗を流し生まれたものばかりだ。

それらがあることが、自分がいたことの証になる。
それらが続く限り、自分が関わり続けていられる居場所になる。

今は、そんな風に思える。

送別会のとき、ある人に言われた。
「看板のここの文章、さよならって書くと寂しくなるから、ありがとうにした」

ちょっとしたことだけど、それが嬉しかった。

希望を残して「また会いましょう」って言えるなんて、この上ない良い別れ方じゃないかって。

また星野源かよ、って思われるかもしれないけど私は彼の『Hello Song』という歌を聴いたとき、真っ先に皆の顔が浮かんだ。

ドームツアーライブの一番最後に歌われた歌。
そのあと彼は
『また会えたら、笑顔で会いましょう』
と叫んだ。

送別会のときの皆への想いとまったく同じだった。
(そういうこともあって、ツアーTを着ていった)
だから、別れではなくて、これから先も。

日々のことは変わっていくし、私が居ないことも少し時間が経てば当たり前になっていって、それぞれがそれぞれの生活を営んでいく。

もちろん私もそう。

皆が近くにいないことが普通になっていくけど、それでも想っている。
近い、遠いという物理的な距離はあるけど、それ以上のものがあるからきっと大丈夫。

そうそう、『Hello Song』だけじゃなくて『Family Song』も皆の顔が浮かんだな。

また会おうね。
会えたときはいっぱい笑おうね。

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