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労働判例を読む#502

※ 司法試験考査委員(労働法)

【Ciel Blueほか事件】(東京地判R4.4.22労判1286.26)

 この事案は、従業員10名程度の輸入事業会社Yに勤務するXが、不当に減給(月給83万円→75万円)された、等として、賃金の差額と、慰謝料(精神的損害の賠償)の支払いを求め、これに対してYがXに対し、経費と称して騙し取った金銭(600万円超)の返還を反訴として求めた事案です。裁判所は、Xの請求を概ね認め、Yの請求を否定しました。

1.就業規則の不存在と減給の可否
 Yには就業規則がなく、Yが賃金を一方的に減額できる規定がありません。それでもYはXの減給が有効であると主張したのですが、Yが従業員の給与を減額できる場合として、裁判所は、①自由な意思による合意がある場合と、②就業規則以外の形式(どのような形式なのかは議論すらされていませんが)で、減給制度が存在する場合の、2つの可能性を検討しています。
 けれども、裁判所は結果的に両方ともYの請求を否定しました。
 理論的な議論の可能性として参考になります(もちろん、より重要な問題はこの議論を裏付ける事実や証拠があるかどうか、という以下の議論ですが)。

2.自由な意思
 ①については、たしかに、Xの側もしっかりと自己主張しているような発言がありました。すなわち、売上が戻れば給与を元に戻す、と持ち掛けたところ、Xが、「今年よりやったら元に戻すのではなくて、それより上げてもらえますか」と発言しており、何もかも言いなりになっていた、というわけではなさそうです。
 けれども、❶それでも後に裁判を提起しているくらいなのだから、この発言だけで同意したとは認められない、❷上司に当たる人物が当時Xに対して相当立腹していて、Xは逆らえなかった、❸書面などの客観的証拠も存在しない、という比較的簡単な認定で、Yの主張が否定されました。
 ここで特に注目されるのは、自由な意思による合意の成否が検討されている中で、Xが合意したかどうかが問題とされる会話の場面でのやり取りなどが、それほど詳細に議論されていない点です。これは、会話が録音されていなかった、ということもあるでしょうが、Xが多少迎合的な発言をしたとしても、それだけでは合意があったとは認められない、という意味でYの側から見た場合のハードルが非常に高かった、ということを意味するように思われます。つまり、ハードルがもう少し低ければ、Xの発言内容次第で減給の合意が認められるでしょうから、より慎重にXの発言内容が検討され、判決の中でもその内容が詳細に検討し、認定されていたでしょう(したがって、この部分の判決もかなり詳細になったでしょう)が、そうではないことが、裁判所が事実や証拠にそれほどこだわっていないことからうかがわれます。
 そもそも、労働法の分野で「自由な意思」が必要とされる場合の「自由な意思」の内容ですが、例えば「山梨県民信用金庫」事件では、労働者がその判断によって受ける不利益を具体的に認識し、しかも、それでも構わないということを真に納得していることが必要、という趣旨の判断が示されました。これは、単に合意書にサインしているレベルや形式だけでは足りず、合意の内容が問題とされ、しかも自分が負うことになる不利益の理解と需要が必要、というレベルになります。
 本事案で「自由な意思」の内容は具体的に示されていませんが、それを具体的に示して検討する以前のレベル、ということでしょうか。たしかに、上記のとおり裁判所は、❸書面すらなかった、という点を数少ない根拠の1つとして指摘しています。
 自由な意思にとても届かない、と評価は止むを得ない事案だったと思われますので、その意味で結論に異論はありませんが、❶については合理性に疑問があります。
 というのも、訴訟を提起すれば「自由な意思」が否定される、とも読めてしまうからです。もしそうであれば、訴訟が提起されれば「自由な意思」が全て否定されることにすらなりかねず、労働者は本事案のように非常に簡単な事実の立証で、合意を全て否定できることになってしまうからです。
 訴訟を提起した、という事実が、自由な意思を否定する事情と評価されるにしても、本事案のように非常に限られた事実だけで自由な意思を否定することは、自由な意思のハードルをあまりにも上げすぎることにならないのか、今後、議論が重ねられるべきポイントでしょう。

3.減給制度の不存在
 ②について裁判所は、2段階で判断しています。
 すなわち、1段階目として、減給できるという制度があるかどうか、という点です。
 裁判所は、実績に応じた昇給や減給がされていなかった、というそれまでの運用だけを理由に、そのような制度はなかった、と認定しています。給与、という労働契約の基本となる部分について、就業規則や合意も無いのにこれを認めることは、やはりとてもハードルが高いのでしょう。ここでも、会社のこれまでの運用実績、という理由だけで簡単にこれが否定されています。
 次に2段階目として、仮にこのような制度があり、減給もある程度可能であるとしても、本事案では減給が認められない、と認定しています。
 ここでは、❶Xの売り上げ減少は、Xが取り扱っていた商材の取扱をYが取りやめたことにあって、Xに原因がないこと、❷売り上げの減少の指摘や、減給の可能性の指摘などがなかったこと、❸会社全体の収益は、黒字化の後も上がっており、減給の必要性がなかったこと、の3つが根拠とされています。
 ここで注目されるのは、従業員にとって不利益な会社の処分の有効性が問題になる場合の判断枠組みです。
 すなわち、一般的で汎用性の高い判断枠組みとして、天秤の図があります。これは、天秤の一方の皿に会社側の事情、他方の皿に従業員側の事情、天秤の支点部分にその他の事情(特にプロセス)を振り分けて整理し、全体のバランスを評価する判断方法です。そして、❶が従業員側の事情、❸が会社側の事情、❷がプロセス(その他の事情)に、それぞれ対応するのです。
 もちろん、この3つの判断枠組みには、通常であればそれぞれ数多くの事実や証拠が整理されるところで、本事案では、ここでもとても簡単に判断されているのですが、それでも、基本となる事実はしっかりと押さえられていることがわかります。

4.実務上のポイント
 総じて言えるポイントは、いずれの論点についても、裁判所が比較的簡単に、Yの主張を否定している点でしょう。就業規則や合意がない中で、給与等の重要な条件を、十分な裏付けや合理性もないまま一方的に変更している、という実態があれば、本人の同意を口頭で取ったという形式だけでは、到底合理性が認められない、という評価が背景にあるように思われます。
 同様に、接待費などの搾取も否定されました。
 他方、ハラスメントの有無については、XがY側の重要人物と出張して、怒りを買ったことから始まり、搾取が疑われ、これを否定したところ九州への配転が命じられた、という経緯を認定し、50万円(+弁護士費用5万円)の損害賠償を命じました。
 直接の言動は、ここでも詳細な議論や検討がされていませんが、それでも損害が認定されたのは、これまでの論点とは逆に、給与や勤務地など、働くうえで重要な要素や条件についての一方的な変更は、それだけで精神的に大きな影響を与える、ということが前提認識にあるように思われます。
 このように見ると、減給を認める方向でも、逆に慰謝料を認める方向でも、いずれも会社から見た場合に高いハードルが設定されていること、そのハードルの高さはどこから来るのかというこ、とについて、参考になる事案です。

※ JILA・社労士の研究会(東京、大阪)で、毎月1回、労働判例を読み込んでいます。

※ この連載が、書籍になりました!しかも、『労働判例』の出版元から!


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