どうせなら嫉妬はライトでポップにしたい
生きていれば、多かれ少なかれ誰かに嫉妬はするものだし、自分と誰かを比較して自己嫌悪におちいるなんてことは、ほとんどの人が経験していると思う。
嫉妬の根本は“憎たらしい”ではない
私自身も若かりし頃は、好きな人の好みの有名人に嫉妬の炎をメラメラ燃やしたものだし、自分よりできる人がそばにいれば、なんだかおもしろくない気持ちにもなっていた。
でも30代40代と歳を重ねるにつれ、そういう感情にものすごく疲れている自分がいることにも気がついたのだ。
いったい、この嫉妬という気持ちの正体はなんなのだろうと思った。
もし嫉妬をしていた有名人が、自分の好きな人の好みでなかったら、私はその人に嫉妬心を抱いただろうか。
抱いていないのだ。
ではなぜ嫉妬したのだろうか。
好きな人の気が、自分ではなくその有名人に向いていることが悔しかったのだ。単純にその有名人が羨ましいだけだった。
そうか、嫉妬の根本にある感情は「憎たらしい」ではなく「羨ましい」だ。
それならなぜ、羨ましいと素直に認められなかったのだろうか。
認めたら、自分が否定されているように感じたからだ。 その有名人や好きな人に、私を否定されたわけではない。私が勝手に自分で自分を否定していたのだ。
ただそれだけのことだった。
好きな人がその有名人を「かわいい、好みだ」と言うたびに、自分と比べては憎たらしく思っていた。けれど心のなかでは、私もその有名人をかわいいと思っていたのだ。
それならなぜ、「かわいい」と素直に言えなかったのだろうか。それはプライドだったかもしれないし、単に認めたくなかっただけかもしれない。
とにかく、好きな人の好みというだけで嫌だった。 有名人も迷惑な話である。いま思えば、どう考えてもとばっちりだ。
こうして振り返ってみると、そういう自分もなんだかかわいらしく思えてくるのは、やっぱり年齢を重ねたからかもしれない。
片思いも実は幸せだと知った
私は30代に入ってから、 本格的にスピリチュアルな考え方にふれるようになった。そこから「他人は変えられない」ことを学び、自分のスタンスを大切にするようになった。
片思いだから切ないのではなく、片思いでも両思いでも、誰かを好きでいられることが幸せなのだと知った。
なぜなら、本当に辛いときは人を好きにすらなれないからだ。誰かを好きになる余裕がないときだって、人生には少なからずある。
でもそういう時期は、それでいいと思うのだ。 自分と向き合うことで手一杯なときは、ひたすら目の前のことをやるしかない。
これも次のステージへ向かうための大切なプロセスだからだ。 これをすっ飛ばすと、また同じことの繰り返しになってしまうとわかるのは、 40代のいまだからこそでもある。
30代ではじまった私の“ことば改革”
20代までの私は、けっこう人に対して批判的 だったかもしれない。
30代になって、他者は自分の投影だということをはっきり認識するようになり、これまで自分が受けてきた嫌なことばも、もとを正せば自分が批判的なことばを使っていたからだとようやく気づいたのだ。
そこから私の「ことば改革」がはじまった。
これまで嫉妬から出ていたであろう憎まれ口を一旦やめて、心のなかで「素敵だな、羨ましいな」と思ったことを、素直にことばにして伝えるようにしてみたのだ。
そうしたら、なんだかみんなとても喜んでくれた。そんな姿を見て私まで嬉しくなってしまって、これならもっと早くやっておけばよかったと後悔した。
脳科学的にいわれる、「他者を褒めると自分を褒めていることになる」を実感した瞬間でもあった。
ひとつ気をつけてきたことは、お世辞はできるだけ言わず、本当にいいと思ったことだけを言うことだ。
お世辞を言ってしまうと、どうしても自分のなかに気持ち悪さが残った。それは結局その人を批判的に見ることにつながるので、 もとの木阿弥だと感じた。
嫉妬の裏に隠れているもの
嫉妬の裏には「純粋な羨ましさ」が隠れている。
ならばそれを、相手が聞いて嬉しくなるようなことばで素直に伝えればいいのではないか。
変にこねくりまわした言い方ではなく、「私はあなたのここが好きだ」「ここがいいと思った」「ここが素晴らしいから見習いたい」などだ。
ことばとして吐き出される前の嫉妬に、メラメラやドロドロの尾ひれをくっつけていたのは自分自身だった。
心のなかにある純粋な嫉妬は、ライトでポップな「羨ましい」なのだと痛感した。
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