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ホラー短編小説『夜叉の涙は黄泉に流るる③』

 

③ 黄泉の女



 治代との待ち合わせ時間には少しはやかった。
 治代から聞いた住所はすぐにわかった。
 表札はないが、ポストには、『佐倉縒子』と記されてある。
 となりの部屋は、家族で借りているらしく、幼児が乗っているらしい自転車が転がっていた。縒子の部屋のまえには、大きなダンボール箱がふたつ置かれていた。なにが入っているかはわからない。
 治代がきてからとも思ったが、ぼくは息をとめて呼び鈴を押した。
しばらくすると、ごそごそと音がして、こちらのようすをうかがっている気配がした。

「おかあさんなの?」

 部屋のなかから、妙にこもったような声がした。しかし、聞き覚えのある声だった。覗き穴からみられると、あけてもらえないと思い、みえないように横に逃れた。鍵をあける音がして、ドアが少しあいたところに足をはさみ、思いっきりドアをあけた。

 ぼくは縒子の姿をみて絶句した。手にもっていた彼女の好きだったワインが下に落ちた。
 縒子が学生のころ、ミスあやめに選ばれたこともある、ぼくの心に焼きつけられていた彼女の姿ではなかった。
 青白い顔。痩せこけた体。乱れた髪はずっととかしていないようだ。服装も着替えをしていないのか、あちこちがが薄汚れていた。
 縒子の身になにがあったのか、ずっと外出していないのではないかと思った。
一瞬、イザナギとイザナミの物語と、縒子が書いた作品とがオーバーラップした。

「なぜ! なぜあなたがここにいるのよぉ!」

 縒子は驚愕した表情で、ぼくを中田だと認めると、泣き叫び、手入れもしていないような髪をふりみだしながら、ドアをつよく閉めた。一瞬、部屋のなかから、すえた、鼻をつく、いやらしい匂いがたちこめてきた。たぶん、部屋のなかはゴミが散乱しているのだろう。きれい好きだった縒子からは、想像もできないことだった。そしてすぐに、ドアの向こうから、縒子のすすり泣きらしい声が聞こえてきた。

 今の縒子だからこそ書けた作品だったにちがいない。誰とも会いたくない気持ちがようやくわかった。ましてや、愛をかわしたこともある恋人には、絶対に会いたくないと思って当然だ。

 しかし、どうしてなのだ。どうしてこんな姿になってしまったのだろう。

「ごらんになってしまったのね」

 いつのまにか、少し遠くに、縒子の母の、治代が立っていた。
 治代に手招きされて、近くの公園まで黙ったまま歩き、ベンチにすわった。縒子と別れるまえはなんどか会って話したこともある。ぼくのことを、まるで自分の子供のように可愛がってくれていた。まだ、六十にもならないのに、白髪がめだつが、心労のせいなのだろうか。

「心療内科の先生にも診てもらっていたんですが、どうも薬の副作用らしくて、急激に体重が減ってきまして、薬をやめ、いろろいと治療したのですけど、もう、どうにもならなくて」

「薬の副作用、ですか?」

「ええ、よくわかりませんが、お医者さまのお話ですと、そのようです」
「ぼくと暮らしていたときも、躁鬱が激しかったけれど、こんなになるほどだなんて、気づきませんでした」

「いえね、じつはもうひとつ、精神的な障害がひどくなった理由があるんですのよ。申し上げにくいことですが、中田さんに、娘の本当の気持ちを伝えたいんです」

 ぼくは黙って、治代の言葉を待った。

「じつは、精神科の先生が催眠療法をしたさい、私も無理を言って立ち合っておりました。そしてわかったことは、娘が私の知らない男からむりやりに……」

 ぼくはそのあとの言葉を手でさえぎった。治代の気持ちを察すれば、むごい言葉を口にさせたくない。きっと性的な暴力をふるわれたのだろう。
ぼくの心のなかに、彼女の衣服が引き千切られ、嗚咽しながらむごい仕打ちをうけているようすが浮かび、なんどもかぶりをふった。

「娘は、パソコンやスマホを使っていまして、ホームペイジというものをつくり、いくつか作品を発表していたらしいのです。その作品を読んだ出版社の編集者から、そうそう、確か、『迷い蛾』という小説でしたわ。その小説を読んだYOU出版社の編集者と名乗る者から縒子にメールがきまして、娘は自分の住所や電話番号を編集者の方に伝えました。後日、その編集者の方から家に電話が来まして、娘の小説を全国に大々的に流通させたいから、相談したいと、その男からホテルに呼ばれて……」

「ええ、そのあとのことは想像できます」

「娘は、はやく作家の仲間入りをして、中田さんと、よりをもどしたいのだと話してましたわ。よほど中田さんのことが忘れられなかったのね。縒子は、あなたが新人賞をおとりになったとき、素直に喜んであげられなかったことを、とても後悔していたわ。あの子はきっと、あなたが成功して、遠くの世界にいってしまうようで、とても寂しかったんですわ。それからでした。縒子が東京でひとり暮らしをはじめたのは」

 治代は頬の涙をぬぐった。
 YOU出版社といえば、田丸の勤めているところだ。そんな話は、聞いたことがなかった。なぜ、田丸はぼくにそのことを話してくれなかったのだろう。いや、そのことはあとで訊けばいい。

「それからどうなりましたか?」

「はい、昨年の秋にはじめてすべてを知った私と主人は、YOU出版社に乗り込みまして、ことの次第を話しました。すると、そのような話はまるで知らないと言われましたのよ。それで強く娘を問いつめましたら、出版社の方ではないと言いましたが、それ以上はなにを訊いてもだめでしたの。その頃にはすでに娘は会社も辞め、アパートに引きこもるようになっていましたの。娘のことでいろいろと悩んでいた主人も昨年なく亡くなりました……」

 治代の頬が紅潮している。思い出し、怒りの思いがわきあがっているのだろう。当然の思いだ。ネットでだまされるような辛い思いをし、ネットですら人と交流したくなくなったというのは、よほど彼女の心の傷は深いのだろう。

「YOU出版社の方は、娘がYOU出版に送った作品を読んで、とても気に入ってくださったようで、いくつか送ってくださいと、もし、出版できるものがあれば、文庫本としてですが、出版してくださると言ってくださったんですよ」

 そうか、それでわかった。縒子が出版社の人たちと会いたがらないのは、自分の体のことだけじゃなかったのだ。それと、無名の新人を出版させた理由と、彼女の心に巣くう、葛藤し、自分自身を切り刻むような暗闘の日々の理由が。

 ぼくだけが縒子を追いつめたわけではないと、少しは救われたような気持ちになった。ぼくとの別れがきっかけになったのかもしれないが、男と寝ている縒子をみて、彼女への思いが、すべて吐き散らかされた汚物のように思えてきた、そんな自分自身を責めるつもりなどない。私にはどうすることもできなかった。今でもそう思う。

「どうしてぼくに、解説なんか頼んできたんでしょう?」

「中田さんに、解説をお願いしたのは、娘の縒子ではなく、私なんですよ。じつは、娘はあなたに解説に頼んだことを知りません。私と出版社の方々と相談して決めたことですの。あなたなら、あのかわいそうな娘の力になってくれると思ったんです。解説を書いていただくのをきっかけにしたかったのです」

「ペンネームは縒子が考えたんですか?」

「ええ、ここ数年、娘がつかっていたものですわ。あの子、昼間は寝ていて、夜になると小説を書いているらしいんですの。今では部屋にも入れてくれなくて、一切、外出しないものですから、私が夜に買物をしたものを、ダンボール箱に入れて、あの子の部屋のまえに置いていくのです。あの子から頼まれていたものを買い忘れたことに気がついて、コンビニにいって、帰ってきたら、あなたが立っていたのです。あの子、誰かが部屋のなかにいるから、なんとかしてって、よく相談はされていたのですよ。まさか、怨霊の呪いだなんて思えなかったけど、今になって思うと、せめて、お祓いだけでもしてもらうべきだったかもしれない……、そうすれば、娘は正気を取り戻してくれたかもしれないのに」

 息苦しくなってきたぼくは、いちど大きく息を吐いた。

「それだけじゃないんです。催眠中に話した内容では、娘は男にだまされてから、自暴破棄になって、つぎからつぎへと男性を変えたそうなんです。性病をうつされ、あの、なんて言いましたか、アダルトビデオに出演させられたり、お金をだましとられたり、さんざんな日々を送っていたようなんです……」

 ぼくは、治代の肩に手をかけ、

「それ以上は、話さないでください」
 と、かすれた声で言った。
 ぼく自身辛くなり、耳の存在を、一瞬だが、消し去りたいと思った。聞かなければよかった。会ってみようなどと思わなければよかった。「縒子さんになにかありましたら、かならずぼくに電話をしてください」
 ぼくの自宅の電話番号とスマホの電話番号。そしてFAX番号、住所が記載された名刺を治代に手渡した。治代の、すっかり皺が深くなった頬に、いくすじもの涙がつたっていた。 

           ④に続く


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