迷惑YouTuberについて考えてみた

 今日(7/17)の昼間、仕事の合間に「迷惑YouTuberがコロナ感染後も動き回り、様々な箇所で二次感染を引き起こした」という記事を読んだ。まぁ噴飯ものだとは思う。この「迷惑YouTuber」なる輩は、様々な箇所で問題を引き起こしていたようだ。私がこの輩を知ったのは、スーパーマーケットの中で、売り物の刺身を勝手に開封し、空き容器をレジに持って行った行動が迷惑行為として検挙されたという行為が報道されたためだが、どうやらそれ以前から「人気YouTuber」にストーキングしてみたりと、確かに迷惑という言葉がピッタリの行動によって、その界隈では知られた存在だったようだ。

 スーパーマーケットでの行動について、本人は「空腹で我慢ができなかった」と言っているようだが、これは明らかに虚言だ。「注目を集めたかった」というのが本当の理由であろうことは、それこそ5歳の子どもにも解る話だ。
 この輩に限らず、YouTube界隈には、こうした「注目を集めるためには何でもする」という人間が一定数存在しているようだ。かなり前のことだが、ドローンを処構わず飛ばしまくり、事情を聴きに来た警察にカメラを向け「これは任意ですか?」と喚き散らしていた餓鬼がいた。また、警察の前で小麦粉を詰めた小袋をわざと落とし、逃げることで誤認逮捕を引き起こそうとした男もいた。これらは全て「注目されたい」という意識が引き起こした「迷惑行為」なのだろう。

 「誰かに注目されたい」という承認欲求があることは、極めて正常だ。問題はそれを満たすための方策にある。当たり前のことだ。子どもの頃であれば、好きな異性の注意を惹きたくて、わざと悪戯を仕掛ける。長じてからは、注目されるためにバンドを始めたり、おしゃれに着飾ったりと、様々な方向で自分をアピールする。ただし殆どの人は、そこで社会的常識という規範の中で道を探す。しかし「迷惑YouTuber」のような人間は、注目を集めるためならば、そこを逸脱することを厭わない。
 冒頭で書いた「迷惑YouTuber」は、ホリエモンこと堀江貴文氏を尊敬しているという。堀江氏の常識にとらわれない考え方が好きだそうだ。馬鹿を言うなと言いたい。堀江氏は、極めて常識的世界の中で生きている。彼のいう常識にとらわれない、というのは、その前提に「社会規範を遵守する」ということが含まれている。堀江氏の主張の中には、必ずしも同意できないことも多々ある。しかし、どの主張も社会規範の枠の中にあるため、議論の対象になり得る。これを理解せず、「ホリエモンが言っていた」という誤った解釈は、敬愛の対象に、それこそ「迷惑」をかけていることに気付かなければならない。

 「迷惑YouTuber」に代表される「法の中であれば何をしてもOK」という考え方はどこから生まれるのだろう。その答えは「教育」にあると思う。
 かつて日本には国教があった。それは「恥」という概念だ。明文化されていないことでも、そこにある規則を推測するくらいの知恵はあった。「ドローンを飛ばしてはいけない」と書いてなくとも、是非を判断するということだ。「迷惑YouTuber」たちも、そのくらいは判断できていると思う。しかしかつてのように「秩序を乱すことは恥ずかしい」という概念がないため、何をしてもいいと、自己弁護しているのだろう。

 「若いころは少々羽目を外してもOK」という風潮は、かなり以前から存在している。私自身、それに助けられて生きていた時期はある。だからこそ、若者の野放図さには、なるべく寛容でありたいとは思っている。しかし社会秩序、最低限のマナーだけは守ってほしいと思う。羽目を外す行為は「アウトロー的」であり、ある種の格好良さを纏っていることは確かだが、行き過ぎると眉を顰められることになる。そして眉を顰めている人たちの視線に込められているのは「憧憬」ではなく、「侮蔑」であることを忘れないでほしい。

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