五輪も古谷経衡

プレジデントオンラインに古谷経衡の記事が掲載された。
https://president.jp/articles/-/48269
彼の文章を読むのは久しぶりな気がするが、相変わらずの不快感を覚えた。
この文章の内容を一言で言うならば「五輪で盛り上がるのは勝手だが、俺はそこには与したくない」というだけである。
そりゃそーだ。「感動をありがとう!」の言葉を先に用意して放送される五輪報道は醜悪だと思う。どんなものが琴線に触れるかなんてことは、人それぞれであり、全ての人が同じものを見て、同じ感動を覚えるなどあり得ない。

ではなぜ古谷の文章は不快なのだろう。
一言で言うならば、文章の端々から滲み出る自己愛と選民意識、そして夜郎自大な解釈が気持ち悪いからだ。
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スポーツ庁「令和元年度全国体力・運動能力、運動習慣等調査結果」によれば、「スポーツが嫌い・やや嫌い」と答えた中学校生徒は、男子で10.8%、女子で20.9%にのぼり、平均すると15.8%が「スポーツが嫌い」と答えている。決して無視できない数の生徒がスポーツは嫌いなんだと答えている。

スポーツ庁はこの「嫌い」を半減させることを国策として打ち出している。滑稽である。国語や算数、社会科が嫌いと答える生徒はこれと同数かそれ以上いる筈だが、なぜスポーツだけが「半減目標」の国家的対象になるのか皆目見当がつかない。嫌いなものを無理やり「好き」に変えさせるというのは、古代の世界帝国が異民族に講じた改宗と同じ愚挙ではないか。スポーツだけがまるで特権的に特別視されることに違和感を覚える。
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別にスポーツだけが特別視されているわけではない。それこそ読み書き算盤と言われる勉学に関する部分は、常に向上を目指すよう、学校や家庭でプレッシャーがかけられている。
さらに言えば、スポーツに目標を設定しているのは、健康な身体づくりという目標があるからだ。その目標は医療費の削減など、複数の目的によって成り立っている。とはいえ、走るのが苦手な子どもを、後ろから鞭で打って走らせるわけではなく、あくまでも「個人の能力に応じて、スポーツを楽しむよう」に指導しているのが大半な筈だ。これを「古代帝国が異民族に講じた改宗と同じ愚挙」などと、独特の無駄に壮大な表現で批判することに「違和感を覚える」。

古谷節はまだまだ続く。
高校時代にパニック障害を発症し、スポーツができなくなった自らの過去を語り、それがきっかけでスポーツが嫌いになったという。
その上で
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思春期にあって、スポーツ分野の部活で県大会や全国大会に進む者だけが特別視され、「頑張り」の代名詞とされる。そして(非体育会系諸氏の)全員で彼ら彼女らを翼賛的に応援するのが当たり前だとされている。
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と続くのだから、意味が解らない。
古谷がどこの高校を卒業しているのかは知らないが、スポーツエリートのみが特別視される学校など、そうは存在しない。多くの場合、容姿、勉学、ダンス、音楽、絵画など、ジャンルを問わず、抜きん出ている者は特別視される。

スポーツのみが特別視されている古谷ワールドにおける、古谷の叫びはこうだ。
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私に言わせれば、それと同じような気概を以て艱難辛苦を乗り越えて政治、経済、社会、文化の方面で創意工夫している人は、スポーツ分野以外にも大勢いる(単純な量的数量ですればそういった人の方が多かろう)。なぜスポーツだけが特別視されるのか。私はいくら熟考してもまるで分からない。一種の選民思想のようにも感じる。
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意外に普通の感想だった。スポーツだけが特別視されているとは思わないが、創意工夫を重ねている人は、あらゆる分野に存在している。「熟考してもまるで分からない」のは、そもそもの現状認識が間違えているからとしか思えない。

ここまでで主張は終わりかと思いきや、またもや自分の思い出話が始まる。2002年の日韓W杯の盛り上がりを疎ましく思っていたという。
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2002年、日韓共催W杯が開催された。私は当時大学2年生で関西圏に住んでいたが、同級生の少なくない一郡は、皆青いユニフォームを着て、或いは頬に日の丸のペインティングをして、京都・河原町、或いは大阪・梅田の酒場やパブリックビューイングで日本代表の戦いに熱狂した。私はそういった同級生を冷ややかな目線で冷笑し、京都市内の吉野家で牛皿をつつきながら学友と押井守の話とか自公保連立(当時は、自民・公明・保守党)の是非を深夜まで闘わせていた。W杯に何の興味もなかった。貴方の感動と私の感動は違う――、これがすべての要因であった。
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このくだりには、古谷という人間の価値観が表れているように思う。W杯で盛り上がる同級生を「冷ややかな目線で冷笑」していたというのだ。
これこそが選民思想だろ!
スポーツで盛り上がらないのが自由であるように、盛り上がることもまた自由であるはずだ。その盛り上がっている同級生を「冷笑」するということは、彼らを見下しているということに他ならない。多様性がなんちゃらと主張している割には、なんと狭量なことか。
押井守や連立政権の話をしていることが、スポーツ観戦よりも上位にあると思っている時点で、完全な勘違い野郎であることを自白しているようにしか思えない。

そんな古谷に対して同級生がとった行動はこうだ。
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日本代表を応援する学友からは、「古谷はなぜ日本代表を応援しないのか。日本人なら青いユニフォームを着て日本代表を鼓舞するのが当然ではないか」と揶揄された。
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何と酷い、そして狭量な学友なことか。日韓W杯の時は、ベッカムブームやイルハンブームがあり、多くの人が「世界を代表するスタープレーヤー」に熱狂していた。日本代表を応援するのとは別に、そうした世界的プレーヤーを応援する人が溢れかえっていたと記憶している。しかし古谷ワールドでは、ナショナリズム全開の学生ばかりが溢れかえっていたようだ。
っていうか、それどう考えても嫌われているだけだと思うぞ・・・

そして古谷はこう文章を結んでいる。
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安倍晋三前首相は「東京五輪に反対するのは反日的である」旨、月刊『Hanada』2021年8月号の対談で発して物議をかもした。そういう問題ではない。五輪をどうしてもやるのなら「ただ静かに黙ってやってくれよ」と思うだけだ。そういう人は多いはずだ。みんながスポーツを好きだと思うなよ。ただこれだけのロジックを建てるために、懇切丁寧に説明しなければならないという時点で、日本にダイバーシティ(多様性)などというものは微塵もないと断言できる。本当に嫌な時代だと思う。
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お説御尤もである。誰もがスポーツを好きなわけではない。五輪中継のために、楽しみにしていたドラマやバラエティー番組の放送がないことを嘆く人もいるだろう。
それはその通りなのだが、「これだけのロジックを建てるために、懇切丁寧に説明しなければならない」って!
ロジックになっていない。判ったのは、古谷がスポーツが嫌いであり、同調圧力を感じているという、古谷個人の感じ方だけだ。一言「俺、スポーツ嫌いだから、五輪に興味ないんだよね」と言えば済む話である。それとも古谷の家には「感動しろ~」と叫び続ける物の怪でも住み着いているのだろうか。それならば、こんな文章を書いている間に、祈祷師を探すことをお勧めする。

この底の浅さを恥じることなく、ロジックと言い切る気持ちの強さ、そしてそれを臆面もなく公衆の前に晒すことのできる気持ちの強さには感心する。ひょっとすると、「強い気持ちを持ちたい」と悩むアスリートにとって最良のコーチなのではないかとすら思えてくる。
結局、この人は学生時代、ネトウヨ感丸出しの論をテレビ番組内で展開し、映画監督の崔洋一に論破され、「もっと勉強しなさい」と言われたころから、本質は何も変わっていないのだろう。だからこそ、「論破できない自称論破王」と揶揄されるひろゆきに、完膚なきまでに論破されたのだろう。

こういう御仁までもが、何か発言したくなるというのは、五輪が影響力の大きなイベントであることの証左と受け取るべきなのかもしれない。
(文中敬称略)


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