フラッシュ

 一筋の光が見える。確かに光っている。けれど、どれだけ手を伸ばしても、この暗闇を掻き分けても、その方角へ走っても、光は決して近づくことはなく、その光が大きくなるわけでもなかった。その光がたった一つの希望、出口だと信じていたのに。

 どれだけの時間が経ったのだろうか、この空間は毒だ。俺の心を弄ぶだけ弄んだ挙句、絶望の二文字を刻み付ける。頭は軋む、もう疲れた。目をつむり横になりたいところだが、床は濡れている。それがわかるのはこの空間で音という音は、水溜りを踏んだような、ぴちゃぴちゃという音しか聞こえてこないからだ。

 ただ不思議と腹は空かない。しばらく立ちっぱなしで、随分と歩き回ったはずだが、腹の虫が鳴くことはないようだ。それでも酷く疲弊していることは間違いない。床が濡れていようと気にせず座ることに決めた。着ているスーツはついこのあいだ購入した、それなりに有名なブランドのものであった。それに合わせて靴も新調した。既に靴がびしょ濡れになっているのだ、今更服を気にしても仕方がない。

 脚を屈め、おそるおそる手を床につける。何故か想像していた感触とは程遠かった。液体とその下に硬いアスファルトがあるものばかりだと思っていたが、蝉のような虫の感触だ。そのまま体重をかけてしまえばくしゃりと潰れて、内臓が飛び出てくるようなそんな気がした。今まで虫を踏み潰してきたのかと考えて走ると、なおもまた水たまりのぴちゃぴちゃという音しか聞こえてこない。 

 狂っている、どれだけこの空間にいても暗順応せず、光が見えるからといって、辺りを少しも照らしはしない。

 これはかなり俺を苦しめる。今までは陽のあたる場所で生きてきたつもりだった。成績優秀でスポーツだって出来た、地域トップ校の高校へ行って、サッカーでも地域の選抜に選ばれることもあった。大学も名の通った大学に進んで、サークル活動やゼミでも中心人物だったはずだ。少なくとも自分ではそう思っている。富豪とは言えないが、裕福な家庭に育って、なにひとつ欠点なんて無かったはずだ。それなのに何故。俺はこんな空間に閉じ込められなきゃいけない。

 あんな喫茶店に入るんじゃなかった。対して珈琲が美味いわけでもないし、安いわけでもなかった。おまけに全席禁煙というのは注文が終わってから知らされた。それでトイレの個室に入るとこの空間へ飛ばされた。鞄も置いたままで、中に財布だって入っている。誰にとられるかわかったもんじゃない。いくら日本の治安がよくても、人を信じすぎることはとても危ういことだ。結局は他人で、何を考えているかはわからない。本当に信頼できる人なんて…俺にはいるのだろうか。いや、いなくてもいい、生きてはいける。それなりに友達だっている。大丈夫だ。

 就活だって、大丈夫だ、なんとかなる。今まで俺を落としてきた会社はどうも合わなかった。後に調べてみたらブラック企業とか、全然面白みのない会社とか、どれも行く価値はなさそうだった。大丈夫だ。

 もう一度手を床に付けてみると、今度は少し肌触りが違うようだ。少し粘着性のありそうな、それでいて固体としてそこに姿形はあるものだ。先ほどより少し歩いたからか、ここでなら横になれそうだ、手をつき腰を下ろす。体重をかけるとぐにょりと床がへこんだようで、それが自分に形を合わせた上質な椅子のようでもあった。ここから出る方法を考えてはみるが、結局のところ何も思いつかない。本当に運の悪いことに、パンツの右のポケットに入れられたスマートフォンは充電が切れている。当たりを照らすことも、暇を潰すこともできない。こうなると、何故ここまでスマートフォンのバッテリーはすぐ切れるのかと苛立ちが止まらない。そもそも困った時に使えないんじゃ携帯電話としての役割を全く果たせていない。本末転倒。せっかく心地の良い場所を見つけ、穏やかに思考することが可能になると思いきや、スマートフォンに憚られてしまった。

 突然、轟音が鳴り響いた。バケツの水を降り注いだかのような音も続けて聞こえてくる。まさか、水かさが増すというのか。こんなところで呑気にくつろいでいる場合じゃない。立ち上がると、人の気配がした。

「大丈夫、そんなに慌てなくても。ただ水が流れてゆくだけ。共に流れてゆくものもあれば、濁った水だったりもするのだけれど。」

 意味深長な言葉の主はどうやら女性のようだ。どこにいるのかも、どんな容貌なのかも、年齢も判別は出来ないが、はっきりとした強い声だった。

「あなたはどれ程この場所にいるのでしょうか」

 しばらく返事はなかったが、息を長く吸い、少し吐いてから口を開いた。

「これまでの期間が長かったのか短かったのか、私の贖罪としてはまだまだ短すぎるのかもしれないし、もう終わりにしてもいいのではないかと感じることもある。時間というのは無限にあるわけではないし、自分でコントロールすることも出来ない。ただ流れてゆくだけ。」

 彼女の言葉はそのままどこかへ流れてはいかず、はっきりと強く留まったが、理解することは難しかった。

「あの光はなんなのでしょうか、何故こんなところへ閉じ込められたのでしょうか」

 尋ねてから、わからないのは向こうも同じなのではないか、わかっていたら既に出られているのではと思ったが、言葉は吸い込んでも戻ってはいかない。

 また彼女は一呼吸いれてから話し始めた。

「光は入口であり出口であるかはわからない。ただ数多くの罪深き者たちがあの光から落ちて来たのを何度も見た。閉じ込められたというのだろうか、こんなにも広大な土地において。むしろ放たれたというほうが正しいのではないか。迷える子羊はここで十分に飼い慣らされていくといい。」

 罪深き者や迷える子羊だけでなく、疑問符がいくつあっても足りないぐらいの疑問点で埋め尽くされていた。

「あなたには私の姿が見えますか」

 彼女は見えているようなのだ。俺がどのような顔つきであり、この場所がどのような景色であるのかも。

「お前は自分の姿をどう見る。人にどのように見られていて、それがなんの影響を及ぼすのか。私にはあまりわからない。自己を保てていればこの土地において他に重要なことはないのではないだろうか。」

 やはり予想通りの答えは返してはくれないようだ。俺にとって俺はどう見えているのか。それなりに上手くいってきた、欠点のない男。身長は175cmと平均より少し高いくらいで、痩せ型だがサッカーで培ってきた筋肉はまだ少しは残っている。自分で自分の顔には満足している。極端にもて囃されたりはしてはいないが、告白だってされたことはある。けれど女性とちゃんと付き合ったことはなかった。身体だけの付き合いが殆どであった。人を好きになるという感覚がわからなかった。

「一つだけ言わせてもらうとお前は少し臭うな。」

 突然、彼女の口から全く似つかわしくない言葉が飛び出してきた。

 臭い、何故だ。俺はこの空間に来てから嗅覚がまともになにか異変を感じ取ったことはなかったが、やはり自分の臭いというものは気づかないものなのか。もしかして俺は日常生活でも遠ざけられていたのかもしれない、体臭のせいで。体臭や口臭というのはあまりはっきりとは相手に申し上げにくい事柄だ。だから真に気の置ける友人に出会えていないのだろうか。知らず知らずのうちに軽蔑され、嘲笑われているのだろうか。自分に限ってそんなことはないはずと思い込んでしまっていた。

「すまない。特に気に留めるような事情でもない。ここではなにも気に留める必要はない。ただ流れていくだけだから。」

 その慰めが余計に心に棘を刺すのだと思いながらもまた質問する。

「ではここで時の流れに身を任せ、ただただ過ごしていくしかないのでしょうか。私にはまだ向こうでやりたいことが沢山あります、こんな暗闇はもううんざりだ」

 何故この女性に助けを求めているのだろうか。彼女も俺と同じ、ここで彷徨っているだけで、俺より少し長くいるからなにかしら悟った、いや悟るしかないと諦めているだけの人なのかもしれない。ゆらゆらと放流された養殖魚のように、同じ場所で来たる時間を待ち続けているだけなのかもしれない。

「ここは罪深き者が流されて行く場所。行いを恥じて過ちを悔いることもあれば、何も気づかずにただ時間が流れていくこともある。私は今も尚ここにいる。この土地にそれ程までの嫌悪感は抱いてはいない。時間という概念を気にせず、自己を見つめ直し、深く考えを巡らせることのなんと至福たることか。ただ書物がないことは非常に残念に思う。稀にこうして他人との対話もあるが、大概は自己との対話だ。"我思う、故に我あり"、思わざるに己はない。」

 もうこれ以上何を考えればいいというのか。どうすればここから出られるのか、どれだけ考えても思いつきはしない。罪深き者、一体俺が何をしたっていうのだろうか。悔いる事なんて…

「流されていくことは非常に楽な事。留まる事は苦しい。特に心では尚更。時間が流れ、過ちも流れていく。過ちを留め、見つめ直す事はとても苦しい。そう、なにも気に留める必要なんてない。流れていくだけで済むのだから。少し話しすぎたようだ。また流されるとしよう。」

 風が流れていくように、すうっと人の気配が消えていった。

 彼女の言葉はやはり理解しがたい。何も考える必要はないのか、それとも考えなければいけないのか。答えは後者だ。彼女はとても反語的に言葉を使っているのだ。彼女はきっとここでさまよっている者を導いてくれているのであろう。それが彼女の贖罪となっている。それでは、彼女の犯した罪とは何なのか。彼女はいったい何をしたというのか。彼女は自己の思考を促してくれている。それがきっと重要な事だから。言葉遣いに思いやりは無くとも、俺を正そうとしてくれている。彼女は多くを語ってはいないが、きっとそういうことだと確信を持てる。自己を見つめ直せと。悔いる事、振り返らなければいけないことは沢山ある。俺は逃げているだけだった。

 就活が、なんとなく上手くいってきた俺の人生に歯止めをかけた。考えが甘かったのだ、周りに流されてサークルやゼミになんとなく入り、そのまま流れていくように月日は流れ、特に身に付ける物もないままにこの時期を迎えてしまった。なんとかなる、流れるように決まっていくと思っていた内定はいつになっても貰えなかった。自己認識が甘いのだ。長所と短所もわかっているつもりで、わかってはいなかった。深く自分というものを抉られても中身は無く、外面だけは固めた、実の少ない栗のようだった。

 彼女は俺を思いやり、言葉をかけてくれていた。俺の甘さを彼女は理解していたのだろうか。俺は自分の事だけを考え、ただ彼女に質問を浴びせているだけだった。臭いにも気付けていなかった、今までだって人の気持ちを考えていれば、自分の臭いにも気付くことはできたはずだ。―――そうか、他人の気持ち、想いを考える事が自己を見つめる事に繋がるというのか。周りを気にせず、自分一人で歩んできたと信じていたが、周りは俺の事を支えてくれていて、だからこそ今があるのか。周りの思いやりにも気付けず、誰も信用しようとしていなかったから、人に思いやりも持てず、一人で進んできたと思い込んでしまったのか。

 “もっと周りを見ろ。”と顧問にも散々言われていた。俺は自分が自分がと、オナニープレーを続けていただけだった。自己満でしかない俺のプレーが周りにどれだけの迷惑をかけていたかは考えもしなかった。俺の今までの短い人生全てに同じ事が言えた。きっとそれで上手くいっていた今までが良くなかった。いや、ここで上手くいかなくて、だからこそこの空間に飛ばされ、そして何かを気づけた。恵まれている。この空間に飛ばされなければ俺は気づけないまま、流されていき、流れていくだけだった。思いやりの精神を学ぶ事が出来た。

 思いやり―――そうか、思いやりか。何故ここにいるのかがわかったような気がする。あの喫茶店で全席禁煙ということと、決まらない内定に苛ついていた俺は、少し古びたチェーン店ではない個人経営の喫茶店のトイレに火災警報機はついていないであろうと踏んで、読み通りであった。大便器に座り、ガムを噛みながら煙草をふかしていた。用も足し、尻を吹いたざらざらなトイレットペーパーと一緒に吸い殻とガムも流した―――なるほど、そのときに俺は… またけたたましい轟音が鳴り響き、一筋の光が伸びてくる。辺り一面が眩しく目を閉じた。

 目を開けると茶色い壁が立ちふさがっていた。尻はひんやりと冷たく、右手の指の間には煙草が白い煙を上げ、口の中はほんのりとミントの刺激と共にガムがあった。慌ててジャケットのポケットに入れてあった携帯灰皿に煙草を入れて、ざらざらのトイレットペーパーで尻を拭き、ガムは口に入れたまま、流しペダルを大の方向へひねる。また少しトイレットペーパーを取り、少し水に浸して便座を拭いた。

 トイレから出て自分の席に戻ると鞄はそのまま置いてあった。どこか聞いた事のあるメロディが店の中で流れていた。サビまで聞いたところで、ふっと笑みが溢れた。彼女の顔は見えなかったがべっぴんだったのだろう。

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