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大正・昭和初期の染織図案-百選会Ⅰ-

本記事は、高島屋百選会を中心とした大正・昭和初期に流行した染織図案についてまとめたものです。

私が戦前の着物が好きで、大正・昭和初期の染織図案について調べてみたのですが、この時代の資料は分散しており、流行を時系列で追うことが難しく、まとめるのに苦労しました。そこで、蒐集した資料から、染織図案の流行がどのような変遷を辿り、世の中に出回っていたかを時系列に知ることが可能な資料としてまとめてみました。同じ様に、この時代の染織図案に興味のある方にとって役立つ記事となれば幸いです。

前回、大正末の服飾図案について記しました。ただ、余りにも漠然とした内容でしたので、今回の記事から百貨店の「流行」を軸に内容を探求していくことにします。最初は大正・昭和初期の百選会の染織図案について考察していきます。記事を書くにあたり、断片的に考察された様々の資料を集め、百選会の流行とはどのようなものであったのか、それを詳細にまとめています。前回の記事では服飾図案と記しましたが、以後、染織図案と統一します。

大正中期〜昭和初期の世相

染織図案について入る前に、大正・昭和初期がどのような世相であったのか軽く触れておきます。

大正中期
第一次世界大戦の好景気後、インフレが起こり物価が高騰。大正7年に富山で米騒動が起こり、庶民には生活困窮者が増加しました。和服では、この頃から華やかな模様が増えていますが、不況の影響により、安定した伝統的な模様の提案が長く続きます。また、大正6年頃には改良帯が考案され、名古屋帯が商品化したといわれています。

大正末期
関東大震災後、丸の内はいち早く復興し、副都心であった新宿や渋谷が急速に発展を遂げています。モダンという言葉が用いられるようになったのも、大正末から昭和にかけて。和服では、西欧から戦後に起こった新しい文化や、日本の前衛芸術が模様として取り入れられるようになりました。モダンとは言え、まだまだ和服の女性が圧倒的に多く、その結果は今和次郎氏の調査によって示されている通りです。

昭和初期(昭和5年迄)
帝都復興によりインフラが整備され、都会では近代的な住居が増え、生活の洋風化が進んでいきます。昭和2年に、三越がPR誌の中で初めて和服に対してモダンという言葉を用います。昭和に入るとモボ・モガの存在が目立ち始め、世間の話題として度々取り上げられるようになります。和服では、錦紗や御召などに人絹が多く利用され始め、一般庶民も手にすることができるようになりました。

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