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母娘関係を振り返る


幼い頃は大体の子供がそうであるように、私もお母さんのことが大好きだった。
それに理由なんてない。自分を守り、一身に愛を注いでくれる、そんな存在を嫌いなはずがない。

私はもともと癇癪や我儘を起こす性質ではなく、それはもう従順に、母が丁寧に敷いてくれたレールを一生懸命歩んできた子供時代だったと思う。


ピアノ習ってみる?バレエは?スイミングもやっておいたらいいかもね。勉強はできたほうがいいわよ。あなたは頭がいいんだから、中学受験してみたら?


答えは常に「YES」だった。大好きなお母さんが勧めるものなら、やったほうがいいのだろう。
それに、お母さんをがっかりさせたくない。すごい!って喜ぶ顔がみたい。褒められたい。お母さんの期待に応えられたら、もっと私のことを好きになってくれるかな?


ふたりで外食に行くときは、毎回何食べたい?と聞かれたが、私の希望が採用されることはほぼなかった。

「ハンバーグ?昨日の夜、お肉食べたじゃない。お母さん今日はお蕎麦の気分だわ」
「お寿司がいいの?今日はご飯って感じじゃないのよね…パスタにしない?」

また母は行ったお店のご飯が冷めてたり、美味しくなかったり、店員さんの態度が良くなかったりすると露骨に不機嫌になり、私はそれも恐れていた。

私が選んだ店でそうなったら嫌だなあ、それならお母さんが行きたいお店でいいやと思うようになり、何食べたい?の問いには「なんでもいい、お母さんはなんの気分?」と答えるようになった。


思えばこの時期から既に、自分の意見というものに自信が持てなかったのかもしれない。
たまに私の希望を伝えても、結局は母の決めた通りになる。それなら自分がどうしたいか考える時間は無駄だと思うようになった。
何かに迷った時は母に指示を仰ぎ、基本その通りに生きてきた。そうすれば母の機嫌も損なわずに済んだ。
自分は養ってもらっている立場だし、自分より人生経験の長い人の言うことは大抵の場合正しいだろう、と考えていたのでさして疑問も抱かなかった。


大学進学時も、本当はこの機に県外で一人暮らししたいという憧れがあったものの、実家の近くにいてほしいという母の希望を尊重し、地元の国立に入った。高校では勉強をそれなりに頑張ったし、追い込みの時期は塾にも通わせてもらった。合格した時は母もとっても喜んでくれた、と思っていた。


そしてそろそろ就活、という時期になった。

やりたいことがなんにもなかった。


私の中で、大学に合格する事が人生最大の目標になっていた事に気がついた。
いつも母に先行して道を用意してもらっていた私は、自分で考える力が備わっていなかった。


キャンパスライフをのほほんと楽しんではいたが、ただそれだけ。
大学で学んでいる内容を活かせる仕事に就きたいとは全く思えなかった。


それでも同期同士で情報交換しながらなんとなく就活は行い、在籍する学部の学生殆どが就く業務内容で数社から内定ももらったが、私はやっぱりその仕事をするイメージを持つことができなかった。

だらだらと就活を続けるわけにも行かず、焦りながら他にもっと自分に向いている業種はないか探していた。



そんなことをある日母に相談した。どうしたらいいか悩んでいる、と。


母は大きなため息をついて言った。


「今更何言ってるの?だからお母さんは手に職つけたら良いよってずっと言ってきたでしょう。薬学部に行って薬剤師になるか、それが無理なら管理栄養士を取れる短大にでも行ったら良かったのに。そりゃああなたのいる学科に大した受け入れ先なんてないわよ」


私は打ちのめされた。
私の中で母の期待に応えられた!と思っていた大学合格は、どうやら母にとって大した価値のない事だったらしい、という事実が、何よりショックだった。


とっても悲しかったけど、同時に腸が煮えくり返るような思いもあった。ずっと母の希望に沿う様に生きてきた結果がこれか。
そもそも、いい歳して母の言葉になぜこんな一喜一憂してるんだ私は?
あーーーーバカバカしい。


もういい子でいるの、やーめた!!!と、私は心の中で叫び、遅れてきた反抗期を謳歌することにした。


なんとか就活を終わらせてからは、殆ど実家には帰らなかった。一人暮らしの友達の家を渡り歩き、途中からは半同棲のような形で当時付き合っていた人の家に転がり込んだ。昼間はバイトを鬼のように入れていたから、自由になるお金もある程度あった。


その生活は夢のように楽しかった。
「自由」ってこういうことなんだ、と知った。


夜中に車を走らせて海に行った。ふたりでスーパーに行って、鍋の材料を選んだ。初めてバッティングセンターに行った。夜通し映画を観た。お酒を飲んでセックスして、裸で眠った。母が大嫌いな煙草を、たくさんたくさん吸った。

今まで母に心配をかけたくない、悲しませたくないと思い、憧れてたけどできなかった「ちょっとイケナイこと」をとにかくたくさんやってみた。
その日の予定も、食べるものも、観る映画も、全部自分で選んで決めた。当たり前のことなんだけどね。

期間にするとほんの1年足らずだが、この時期に私の人格も大きく変わった気がしてならない。


反抗期中、母へ最低限の連絡(今日も友達の家に泊まりますというLINE)は毎日していた。音信不通にしたら警察沙汰になりそうだと思ったから。


しかしある朝着替えを取りに家に戻ると、母が玄関で目を真っ赤にしながら正座していた。
あの様子は今も忘れられない。

「話があります、座りなさい」

とそれはそれは低い声で言われたが、私は本当にその後バイトが入っていたので

「ごめん!これからバイトだからまたね!」

とドアを閉めて、慌てて車を発進させた。


その後をどうやって乗り切ったのかは覚えてないが(思っていたより大事にならなかった。私はもしかして勘当されるのかなーとか思っていたのだが)、今振り返ると私もいきなりなかなか無茶なことをして心配をかけたなと思う。


ただこの事は、お互いが親離れ子離れする非常にいい契機になったことも確かだった。



今も母は私に過干渉気味だし、私は母の期待に応えられていない。この間少し口論になったとき、
母は「あなたの育て方間違えたのかなあ」とこぼしていた(笑)

母の求める娘になれないことがとにかく苦しかった時期もあるが、最近はお互い諦めのような気持ちが芽生えてきていると思う。

例え親子でも、所詮は他人。自分の思い通りにはならないのだ、決して。



これからも程よい距離感でぼちぼち仲良くやっていけたらいいかな、と大人になった娘は思っている。


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