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自分の考えが世の主流じゃなくても・・

又くだらないことを書いてしまった(「ルパン三世」の石川五右衛門風に)
これもまた具合の悪かった時に書き溜めていたものの+加筆アップ分です。
ご笑納(?)いただけますと幸いです。🙇🏻

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noteはこちらから取りに行く情報ソースなのでむしろ共感度高い考えをお持ちの方に出会うことが多いのですが、ほんとしばらくまとまった文章が読めなくなっていたので、「X」に逃げていた結果、何だか自分の立ち位置をいろいろと考え込んでしまった😅
病んでる時にSNSは良くないと言いますが、それによってブレインフォグにも関わらず持ち続けているインプット欲が満たされて来た側面も有り、難しいな!

Xはアルゴリズムが自分自身の実態と合わないところへ寄せて来がちというか、なーんかズレるんですよね。😅要するにXにとっては私自身がそれら属性を持った方々と同じ方面へカテゴライズされるということなのでしょうが、似て非なる、なかなか掛け離れた世界が展開されており、逆に興味深いところも有ります。
自分の主義に合わない人たちを貶す意図は無いのですが、そういうちょっと違和感覚える人たちのポストを読んでいると、本当の自分が見えてくる。他者と自分との違いを見つけることで自分を認識する範囲を固めてゆくわけです。
コレジャナイを消し込んで行き、残ったところに在るものがワタシ。

教育系で発信されてる方々のツイート読んでて思ったのが・・

①私には、教育投資やコスパという考えが無い
ということ。

そもそも私は、環境的・費用的に可能な与えられた選択肢の中から最善を選んで来た感覚しかなく、またそこに最善の選択肢が無かった場合には戦って来た育児人生なので、あまり先々見越して賢く振る舞う感じが分からないです。
また、親がお金をかけて子どもが高給取りに仕上がれば元がとれたとか勝ったとする考えに全く賛同できない。倫理とかモラルみたいな意味よりもむしろ、投資するところと回収するところが繋がってないのにコスパ計算できるのかな?という違和感も含めて。

ただ、頑張ってる方の情熱を否定しないですし、何なら私の香港時代のママ友はほぼ全員それなので、自分がそうでないというだけで馴染みのある世界です。
私と息子のして来たことが戦略的な教育コースと何が違うのかと言えば、おそらく表面的には区別がつかない程似通ってるのだろうし、戦略的なお母さんたちに仲間に入れていただいてるのは純粋に有り難い。戦略的なお母さんたちは、実践してない親達をなかなか仲間に入れてあげないところがあるのですよ。それは意地悪じゃなくて、実践してない人は偏見を持ってることが多いから。酷い人なんか暗に失敗するに違いないという呪いをかけるような心配をしてくれたり。だから私自身がそういう警戒を持たれない内側の存在として認識してもらえるのは嬉しいし、実際行動としては似てるのでシンパシーとか仲間意識は有りますね。

否しかし、ちょっと拒絶反応きつくなって来たかなー。自分が異質であることは意識して程々にしておかないと、違和感からポロっと否定の言葉が出てしまいそうで、それだと頑張ってる方々に対して失礼過ぎます。

②世の中では「頭が悪い」「〜が出来ない」という表現に人間としての質が低いかのような侮蔑の意味を含んでいるということを、自分はイマイチ理解出来てないんだなと感じます。

この社会には、基本的に「努力して出来ないことは無い」「努力しないから出来ないのだ」という大前提の決めつけがあり、従って「努力しないから頭が悪い」のだ「努力が足りないから〜が出来ないのだ」へ繋げ、能力に欠ける者は人間としての質が低いと軽蔑される構造となってるようです。

ところが私には、うっかりしてると言葉を言葉通りにしか受け止められない傾向があって、能力の違いに言及する/されている時に、それが即褒めることや貶すことに繋がっているという連想が、少し働き難いようです。実際には「頭良いですね!→裏に勤勉で誠実な性格が当然在ると予想している=尊敬できる人物として褒めている」または「〜出来ないの?→少し真面目に取り組めば誰にでも出来ることなのにしなかった怠け者であると暗に予想している=見下しの気持ち」ということで会話が成り立っていることの方が殆どで、「頭が悪いと言ったからって馬鹿にしてるのではありません」とか「〜が出来るってだけの話で人間的には評価されないよ」ということはなかなか無い。
実際「頭が悪い(馬鹿)と評価すること」と「馬鹿にする(見下す)」は関係の無いことのような気がするんだけれど、言葉からしてそういう傾向が現れてて面白いですよね。相手や話題に上る第三者について語る時に、馬鹿にする意味を含まずその人の頭の悪さを共通認識したい場合にはどうしたら良いんだろうか。
同時に、人が自分自身を振り返る時にも、自分の頭が悪いとか能力が無いということを頑として認めたくない感覚が分からなかったりもします。そこで引っかかってると先進まないだろうに。頭の良さは白か黒かで決められる問題でも無いのだから、ある意味私もあなたも皆さんそれなりに頭悪くて、皆さんそれなりに頭は良いのでは?と思います。コンプレックスから抜け出すと楽です。

③ひと昔前には普通の会話でもよく使われた表現に「ボヘミアン」という言葉が有りますが、あれは私自身をよく表してるように思われます。

実際常に3カ国を行き来しており、また人としての個性も平均的な(というものが有るとすれば)日本人でなく、香港的でもなく、勿論イギリス的でもない、フラフラしているが為にどこの色にも染まり切れないところがある様です。
これは鶏が先か卵が先かみたいな話で、人生の半分以上を海外で暮らしてるからこうなったのか、こういう人間だからなかなか根が生えないのか自分でも分かりませんが、相互関係があることだけは間違いない気がします。

「ボヘミアン(ボヘミア人)」というのは、今は差別用語として捉えられることの多い「ジプシー」とか「ロマ」と同じ移動生活者たちのことを元々は指したそうですが、そこから派生して、根無草で享楽的な性格をもつ自由人を半ば揶揄したり自嘲して指す表現となったそうです。QUEENの名曲「ボヘミアン・ラプソディ」は、そんなボヘミアンな生き方の若者が取り返しのつかない間違いを犯してしまい、母親に語りかける哀しい歌詞となっていますね。(脱線)

実は海外で移民として生活をしていると、私のような人間は別段珍しくはなく、これ迄深く考えてこなかったのですが、日本人基準で考えればやはりかなり浮いているということに、今更のように気がついてしまいました。教育の話をしていても根本的に違っているのはそこなのかも知れない。

特に、春からの手術付き添い帰省に始まる日本側家族とのやりとりや、東京の会社を業務縮小するにあたり進めなければならない手続きを通して、日本での自分の身分というものが、日本に生まれて日本で育って来た人たちにとって如何に胡散くさく、中途半端に見えているのか、また今のような日本の経済が悪くなってる時なんかには、まるでズルでもしてるかのように感じられてるのか、ということを身を以て感じるに至り、海外へ出て四半世紀も経とうという今更なのですが、かなり凹むと共に、もはやいじめられっ子としての覚悟を決めたい、とでもいうような辛い思い切りとなりました。
また、在香港の時は(日本と文化的に近いからだと思うのですが)さほど感じなかったのだけど、在英が何年程度有る日本人の間であっても強い日本人気質の仲間意識というものが存在していて、自分はそこからも浮いているんだなということを感じています。

もうこれは、どうしようも無いな!と。
浮いてて寂しい思いは度々感じても、直せる(?マジョリティが正しいとは限らず、人格に正しさなど無いのだけれど)わけじゃ無し。


生きて行くとは孤独なもの だな〜

と再確認することで少しずつ鬱からも回復して行けるのかな。