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【エッセイ】賢人の主張で説明する「想像できたものは確実に実現できる」という話

誰もが「(アニメや漫画の中のキャラクターの様に)スーパーパワーや魔法を使ったりするところ」を想像したり「純粋に大金が得られたら」と想像したことがあるでしょう。

でもそれは現実に意識を向けた途端、「朝起きて夢を見ていたと自覚する時」と同じ様にして、実現できない事への失望を伴いながら「思考の場」を理性へと返す事になってしまいます。

ではなぜ想像は現実にならないのか?

簡単な話で「行動を伴っていないから」なのです。

そしてその道は「習慣と確信」で形作られているのです。

以下に持論を交えつつ説明していきましょう。

■想像力とは何か?

まず想像力とは何でしょうか?

詳細な定義は辞書に任せますが、個人的には「客観的知識と主観的経験で構成される、意味や理解(可能性)を作り出す『生きるための力』」と解釈しています。

そしてその豊かさ=賢さは「(時代を問わない)その個体の生きる強さ」に直結し、評価基準が「能力の高さ」になっている今の資本主義社会では一層、「想像力の高さと社会からの評価」が比例している事がわかります。

もちろん賢さとは「学校教育における評価対象である学力」も含みますが、本質は「学力を構成する想像力」にあります。

学力に優れた(賢い)人がその他と異なるのは、その高い想像力を行使して「『この社会で多くの対価を得るに至らせる専門知識』を獲得できたから」なのは明らかでしょう。

これは現状人にのみ許された能力であり、このおかげで人は地球を支配する種族に上り立ちました。

しかし人は「思い描いた景色を実現できる旨味」を知り、長きに渡って向こう見ずに乱開発をしては自らの首を絞めてきました。

その結果、後続たる私達に「今世界中で見られている異常気象や社会的格差という形」でそのツケをもたらしていたのでした。

■想像力にまつわる諸概念と持論

人間なら誰しもが持っている想像力、では「頭の中のイメージを実現して地位や評価を得た稀有な人物」はそうでない人物とは何が違うのでしょうか?

そして「本来誰もがそう在れるはずだった」としたら、なぜ今はそうではないのでしょうか?

それを説明できる概念はいくつもありますが、私が持ち合わせているものの中でいくつかを挙げて説明してみたいと思います。

●「『ありえない事は起きない』というのはありえない」 - ジャン=ピエール・デュピュイ

世の中には「賢明な破局論」という解釈があります。

哲学者ジャン=ピエール・デュピュイが提唱したそれは「急激な環境の変化等の様な『発生する確率が(低かろうと)確かにあるもの』が確実である様に行動する事で『不確実性を考慮しなくていい』様にし、現実にならない様に死力を尽くす」というものです。

こう解釈する事で「日ごとに脅威を増しつつある『今人類が持っている危機察知能力を超えていて察知する事ができない危機』の到来」に備える事ができる様になり、そうしない時に比べて多くを救えるかもしれない、と考えられるわけです。

「『ありえない事は起きない』というのはありえない」という結論を導き出したこの論理は9.11テロを契機に提唱され、不確実性が増す一方の世の中で一層価値を高めている論理だと言えます。

●「成功も失敗も繰り返して技術や考え方(知識・経験)を蓄積していく事で、人生は変えられる」 - アリストテレス

哲学者アリストテレスは「『善い習慣の積み重ね』で性格・人柄は変容し、必然的に結末(将来)をも変える」と語ります。

技術でも徳でも、「まだ身に着けていない状態」から何度も挑戦と失敗を繰り返して、「偶然できた時にあった『成功の理由(コツ・感覚・条件)』を捉える事」で徐々に成功率が上がっていくのです。

「善い事を繰り返していく事で考えずとも実践できる様に無意識レベルに落とし込み、その上で更なる何かの習得に挑戦していく事で成長していく」という訳です。

またここで言われている徳とは「『人間が生まれながらに持っている可能性(成れるものに成れる潜在性)』を実現し、より充実した力強い人間として優れた働きを可能にする能力」という意味を持ちます。

つまり徳とは「成れるものに成る為の能力」と言え、「(侵略や略奪などの悪い態度にも)成れるけど成らないという選択」をも採れるこの能力はまさに倫理の議論であり、アリストテレスに始まって今まで「道具(想像力や直観力や理性)をどの様に扱うのか」を巡る議論が続いています。

●「B価値の実現に向けて能力(想像力)を行使する事で、想像の実現は不可能ではなくなる」- アブラハム・ハロルド・マズロー

社会心理学者アブラハム・ハロルド・マズローは「稀有な実績を残した人物は『自己実現欲求』の点で共通」し、その者達は「人間にとっての究極的かつ本質的な価値であり、もうそれ以上分析・分割できないものとして我々が知覚するものである『B価値(Being価値、存在価値)』を重んじている」と語ります。

自己実現欲求とは「人が潜在的に持っている物を開花させて、自分がなりうる全てのものに成り切る事、あるいはより一層自分であろうとする欲求」であり、「想像されたイメージの実現」はこれに該当します。

B価値は単一の形容手段で表すことはできませんが、総体として存在するB価値を異なる視点から眺める事で「真・善・美等」の様に数十種類の形容手段を獲得し、史上の偉人達は「『自らが快く楽しめる仕事』を通してB価値の実現を試みている」のでした。

それらの特徴は今世界で見られている著名な人物にも当てはまり、ともすればこれに該当する身近な人物も、近い将来脚光を浴びるのかもしれません。

●「想像できた以上、それが起こると思えば、それは実現しうる」 - 持論

そして、それらと高度に関連する形で、私は「『想像できた以上、それが起こると思えば、それは実現しうる』という持論」と「『客観性を抜きにして、自分の主観を生きられるのは自分だけで、自分という内側の世界で自分は神である』という解釈」を持っています。

後者は言い換えるなら「他者が何と言って強制しようとも、自らの主観を直接操作する事はできない」という事であり、端的に言うなら「他者が何と言おうと『それがどうした』」なのです。

「自らの頭の中に留めるなら何をどう考えても良く、考えまで他者に強いられる必要はない」という事です。

●「可能性の数だけ、世界(宇宙)が存在するかもしれない」- ヒュー・エベレット

また一つの解釈の仕方として先進科学の量子力学・マルチバース理論における「多世界解釈」からも「全ては確実に存在する事ができる」と説明する事ができます。

多世界解釈とは物理学者ヒュー・エベレットが提唱した理論で、「パラレルワールド理論」の別名でも知られています。

(そのルーツは古く「2重スリット実験とその結果」に端を発しますが、詳細は省きます)

その要旨を端的に説明するなら、「『シュレディンガーの猫』の様に複数の状態が重なり合った状態」を、本当は「それぞれが別の世界(宇宙)に存在しているだけ」で、加えて「重ね合わせが発生したタイミングで『別々の結末を辿る世界』に分岐した」と解釈する立場の事です。

つまり、あるものを想像した時「その想像したタイミングで『その想像が実現している世界(宇宙)』が分岐して発生した」という事です。

あるいは「想像できたという事は『別の世界(宇宙)の様子を垣間見たという事』である」とも考えられます。

その意味において想像は「自分の世界(宇宙)では発生しないかもしれないが、他の世界(宇宙)では確実に発生している」と言えるのです。

これはすごい事で、個人的には「『無意識か否かを問わず思考が繰り返される人の脳でイメージされるその数』だけ宇宙が存在するかもしれない」と、まさに無限個の宇宙を日々眺めていると考えられるのです。

ただ、この考えの欠点は「その他の世界(宇宙)が存在する事を裏付ける証拠がない」という点にあり、故に解釈に留まっているという訳です。

●結論

以上の主張と持論から次の事が言えます。

どんなに可能性が低かろうと、思いついたものは『信じるのをやめない限り』において実現に至る」と。

例えそれが「身一つで空を飛ぶ」とか「未踏の深海を探査する」とか、あるいは「他者に危害を加えるイメージ」だろうと「自己犠牲という形で名声を得る破滅的なイメージ」だろうと、それは自分の自由なのです。

イメージできたものの中で何を実現したいかは各々に委ねられ、その基準こそ道徳・倫理であるべきであり、それに反して功利的に搾取するなど、私は認めたくないと考えています。

しかし、それでも「自らの自由」の名において、そして「(他者への)自由の尊重」をもって、それでもいいと思います。

(もちろん他者へ危害を加える行為は「同等の代償」をもって償われる必要があるとも考えていますが)

■しかし「それがいつになるかはわからない」

ここで最大にして当然の「その実現がどれ位先の話になるのかは定かではない」という欠点があります。

その実現が数日後なのか、数か月後、数年後なのか、はたまた「結局今際の際まで実現できなかった」なんて言うのも想像に難くなく、むしろ叶わない夢(イメージ)の方が多いのは歴史が物語っています。

ただ、「人の本来の生き方」は急かされるものではなく、搾取を主とする資本主義の故に神速が尊ばれる様になったのです。

では「人の本来の生き方」とは何でしょうか?

●「本来的な人間生活」を考える

その為に次の思考実験を、できる限りいい条件で考えてみましょう。

「神か国か大富豪の気まぐれによって、今後自分が死ぬ時まで『自分だけの支払義務の一切』が免除されたとして、最後に何が残るか」というものです。

本当に一切の支払義務がなくなるので、「一日のほとんどが占められる仕事」をしなくてよくなります。

もちろん仕事ができなくなる訳ではなく、「わざわざ働いてまで金を稼ぐ必要がなくなった」というだけですから、やりがいや成長・挑戦の為に労働契約を交わすのは可能です。

毎日ホテル暮らしや外食はもちろん、もっと広い家に引っ越して家具も新調したり、高級車を買うに留まらず船や旅客機を買ったり、デパコスなどと言わず著名なメイクアップアーティストを呼んだり、海外旅行どころか月面旅行を敢行したりと、何でもありです。

ただその果てに気付くはずです、「何でも手に入ってしまったら飽きてしまわないか?」と。

流行のものは金を積めば手に入るし、おいしいものも何時しかそこまでおいしいと感じなくなるし、絢爛豪華に酒池肉林の限りを尽くしても当初程快く感じません。

そしてこの感覚を現実に当てはめる事で次の様に思うはずです。

「今まで(そしてこれからも)『心を動かすと思っていた多くのものを得る為の対価』を得る営みに多くの心身のリソースを注いで、その割に満足を得られる事はなかった」と。

もっとはっきり言うなら「結局『シャカリキ働いた割に得られるもの』は、自分を満足させる程のものではない」という事です。

では簡単に何でも手に入るとして、心躍らなくなった日々を再びワクワクさせるには何があればいいのか?

ここがスタート地点なのです。

つまり「『急かされず充足した環境で欲し目指すものこそ、その人の人生の目的』であり、それを追求するのが人本来の生き方なのだ」と、私は考えるのです。

そして時を超えて追及されるその普遍的な物の正体は「『価値ある種類の何か』他者にも認識できる様な形で現わされる事」でした。

例えば「月面着陸の様な『実績』、物理の根本的な法則の発見の様な『知識』、世界を恒久和平に導くような『(友情・愛情に基づく)関係』」の様な物です。

実際人類史に名を連ねた人物は「価値ある種類の何か」を我々でもわかる形で遺した結果、死して尚後世まで語り継がれているのです。

要は「価値ある種類の何かを残した事によって『誰かに覚えていてもらえる』」のです。

当然、その目的の追求に満足したり一時保留にして次の目的を目指したりは自由で、それも自分次第です。

かくかくしかじか、そういう訳で「人本来の生き方である『イメージの実現を目指す営み』に速さを求める必要はない」と考えるのです。

「本来的な人間生活」や「その実現を企図するイデオロギー」については別の記事で詳細を綴っていますので、お時間がございましたらご覧ください。

●誰もが「ヨナ・コンプレックス」に陥っている

加えて私は多くの人が「ヨナ・コンプレックス」に陥っているとも考えています。

つまり「本当はできるにもかかわらずできないと思い込んでしまい、『自らの偉大さを恐れる心、運命からの逃避、自己の最善の能力からの逃避』の様に『私には不可能』と思考している」のです。

これは「過度な競争に晒され、要求水準に達しなかった為切り捨てられてきた人」なら経験したことのある現象でしょう。

これが「本当はその人・物により適性があるはず(あるいはない)なのに単一基準のみで計った為に、後々全体に不利益や歪みをもたらす『悪しき形骸』」である事はここ最近で言われ始めた事ではありません。

しかしこの詳細はまた別の機会にお話しします。

以上より、「想像の成就が未だ訪れないと失望するのは相応しくなく、『快いビジョンを吹き消される事無く抱き続けて、それに向けて歩み続けるだけ』なのだ」というのが私の結論です。

この解釈との邂逅は「ザ・シークレット(ロンダ・バーン)」だったかと記憶しています。

紆余曲折在りましたが、「ある時をキッカケに抱き続けているイメージ」を忘れず信じて全身を試みた結果、今は概ね思い描いていた将来(最低限の支払義務履行と思索の日々)を歩めている様です。

この小さな成功体験は、この先の将来も、信じるのを止めない限り、思い描いていた道を示し続けてくれるでしょう。

「相応しき人に相応しき物が与えられる本来主義の世界」が築かれるまで…

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