インターネット生活者の手記2

https://note.com/19390901/n/n7ce4a065affc

これの続きだよ〜


ところで、諸君、俺はいま諸君が聞くことを望むにしろ、望まないにしろ、なぜ俺が虫けらにさえなれなかったかというわけを、話して聞かせたいとお思う。堂々といってのけるが、俺は今までなんど虫けらになりたいと思ったか知れない。けれども、俺はそれにさえ値しない人間だったのだ。諸君、誓っていうが、あまり意識しすぎるということは、それは病気なのである。間違いのない本物の病気なのである。人間の日常生活にとっては、ありふれた世間なみの意識だけでも、十分すぎるくらいなのだ。つまり、不幸な我が二十一世紀に生まれ合わせて、しかもその上に、地球上で最も害悪な地域の北関東に住むなどという……畜生!俺は賭けでもするが、諸君は俺がこんなことを書くのを、空威張りのためだ、──警句を吐くために、悪趣味な空威張りをしているのだ、とこう考えていられるに相違ない。しかし、諸君、自分の病気を自慢するものがどこにあろう?しかも、それを種に威張るなんて、もってのほかの話である。

もっとも、俺はいったい何を言っているのだ? だれだって、それをやっているではないか。つまり、病気を自慢しているのだ。俺などはおそらくその最たるものだろう。とにかく、議論はよそう。俺の抗弁などは馬鹿げて聞こえるから。が、それにしても、俺は心から確信している、──意識の過剰どころか、どんな種類の意識でも、意識はすべて病気なのである。俺はそれを主張する。けれど、この問題もしばらく措くことにして、ひとつこういう疑問に答えてもらいたい。

どういうわけで俺はいつも、最も大切な瞬間に、見ぐるしい所業をやってのけるようになったのか? しかも、それは……まあ、それはひと口にいえば、みんながやっていることかもしれないけれど、俺としてはけっしてやってはならないと十二分に意識しているその瞬間に、当てつけがましくわざわざ頭に浮かんでくるのである。俺は善だとかをはっきり意識すればするほど、いよいよ深く自己の内部の泥沼にはまりこんで、まるで抜きも差しもできなくなってしまうのだ。なによりも困ったことは、それがすべて偶然でなく、どうしてもそうならざるをえないように思われる点なのである。いわば、まるでこれが俺のノーマルな状態であって、けっして病気でもなければ変態でもないらしいので、結局この変態と戦おうなどという気持ちが、すっかりなくなってしまったのだ。

で、俺はとどのつまり、おそらくこれを自分のノーマルな状態のように、ほとんど信じかねないばかりになった(ことによったら、本当に信じ切ったかもしれない)けれど、初めしばらくの間は、この闘争のために、俺はどれくらい苦しんだかしれない!俺は、誰でもみんなそうだとは思わなかったので、その後ずっとこのことを、まるで大きな秘密のようにひた隠しにしていた。俺はそれを恥じた(もしかしたら、今でも恥じているかもしれない)。それが嵩じてくると、なにか常軌を逸した、下劣な、秘密の快楽めいたものを感じるようになった。どうかすると、あのなんともいえない、忌まわしい夜に、自分のあばら家へ帰ってきながら、今日もまた陋劣なことをやってのけた、しかしできたことは取り返しがつかないと、一生懸命に意識の中でくり返しては、心密かに自分を責めさいなみ、わが身を噛み裂き、引きちぎるのだ。そうすると終いにはこの意識の苦汁が、一種の呪わしい汚辱に満ちた甘い感じに変わって、最後にはそれこそ間違いのない真剣な快楽になってしまう! そうだ、快楽なのだ、まさに快楽なのである!俺はそれを主張する。俺がこんなことをいい出したのは、ほかの人にもこんな快感があるものか、それを確実に知りたくてたまらないからだ。

俺は諸君に説明しよう。この場合の快感は、あまり強烈に自己の屈辱を意識するところから生じたのだ。つまり、自分がどんづまりの壁にぶつかって、その苦しさを痛感しながら、しかもほかにどうもしようがない、逃れるべき道がない、今さら別人になるわけにはいかない、時間の余裕があったとしても、おそらく自分からそんな変化を望まなかったに相違ない。それに、そんな気を起こしてみたところで、結局どうもしなかったろうと思われる。なぜなら、変わるべき目標がないからである。──こんな風に考えるところから、一種の快感が生ずるのだ。しかし、もっとも肝要な最後まで煎じつめた要点は、ほかでもない、こんなことはすべて、強烈な意識に含まれているノーマルな根本法則と、その法則から直接に生ずる惰力によって行なわれるのだから、したがってこの場合、何かに変わるなどということはおろか、もうてんで手も足も出ないのである。

たとえば、強烈な意識の結果として、こんなことがいえるのだ。もし当人が本当に自分を卑劣漢だと感じているなら、卑劣漢であるのも正しいことだ。そして、それが卑劣漢にとって気休めになるのだ。しかし、もうたくさんだ……ああ、さんざしゃべり散らしはしたものの、いったいなにを説明することができただろう?……俺の言う快感はどう説明されたのだ? しかし、俺は説明してみせる!俺はいやでも最後までけりをつけずにはおかない! 俺が筆をとったのも、つまりそのためではないか……もっともこれは筆ではなくキーボードなのだが……

早い話が、俺は恐ろしく自負心が強い。猜疑心が強くて、怒りっぽい。けれど、本当のところを言うと、もし仮に平手打ちでも喰わせられるようなことがあったら、俺はかえってそれを喜んだかもしれない、そういったような時が、俺にはよくあるのだ。真面目な話、俺はそんな場合でも、一種独得の快感を見つけだしたに相違ない。むろん、それは絶望の快感である。絶望の中にも焼けつくように強烈な快感があるものだ。ことに自分の進退きわまった窮境を痛切に意識する時などは、なおさらである。で、その平手打ちを喰った場合は、自分が二度と世間へ顔出しができないほど、面目をまる潰しにされたという意識が、いや応なく頭からのしかかって来るわけである。とにかく、肝心な問題は、なんと理屈をこねてみたところで、結局、要するに、俺がいつもすべての点において、一番の悪者になってしまうということなのだ。何よりも癪に障るのは、罪もないのに、いわば自然の法則で、悪者になってしまうことである。まず第一に、俺は周囲のだれよりも低知能なのが悪いのだ。第二には、たとえ俺に高潔心があったにもせよ、それがなんの役にも立たないと意識することによって、かえって余計に苦しい思いをするばかりなので、それも俺が悪いことになるのである。この世の物事はたぶんすべて自然の法則に従ったものだろう。自然の法則を許すなどと上から目線の態度は不可能である。それかといって、忘れることもできない。たとえ自然の法則とはいいながら、それでもやはり癪だからである。 なんてくそったれなんだ、この世ってやつは……


疲れたので今日はここまでだよ〜

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?