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わたしの、あなたの、起源

A:「学問は、現象に明覚な名称を与えることによって、複数発生している事象については排斥しているという事実を認識しなければならない。」
B:「お勉強しすぎると、自分の周りで起こっていることに鈍感になります」
C:「知識が洞察力を否定してしまうからだ」

A:「洞察力などという曖昧なものは存在しない。観察による知見には、すべて出口があり名称はあらかじめ用意されている」
B:「人は、自然の法則に生きているのですよ。それに当てはまらないことがあるのは、法則が全部を網羅していないからです。人にはまだ、進化する余地があるというめでたい話ですよ」
C:「でも、その法則ってものにも限りがあるわけでしょ。私は、そんなものに左右されたくないなあ」

某月某日 午前2時
月明かりを受けた白い花が咲いた。
その二秒後、月明かりのような白い手が花を摘み取った。

某月某日+1午前2時
月明かりが、花のない窓辺の草に当った。
その二秒後、月明かりのような白い手が花をそのてっぺんに咲かせた。

前日花を見ていた人は、その一瞬後起こったことを見ていなかった。
その日月を見ていた人は、一瞬後に花が咲いた草を見た。

全ては静かさの中で行われた所業であり、誰も見ていない。それがあたかもずっとそうであったかのように、白い花は、月明かりの白いスポットライトを浴びて窓辺に咲いている。

条件が多ければ多いほど、
統計データが多ければ多いほど、
精度は上がる。
人の行動なんて、思考なんて、経験に左右されど、結局は統計の言う通りになるんだから。
人の意識は、意志には負ける。意志は認知した瞬間、すでに行動を起こしている。それは意識を司る脳が認知する前に、身体中のタンパク質が自然な反応として行動を起こしているから。これを止めようとすると、意志と意識のバグが体の中で起きて、心地悪さや理不尽さを感じる。
体のタンパク質は、脳が認識するより早く、実体あるあなたが感じる必要性を実現しようとする。言うまでもなく、そのたんぱく質は、生物学的親が提供したものが始まり。男女の別によって、前世代から受ける影響の範囲は異なるが、延長線上にあることは確実。

親を凌ぐとか、『トンビが鷹を産んだ』のことわざとか、
あれは時代が変わり取り巻く環境が変わっただけのこと。ただし、佳き配合によって特定の分野に強いものは起きる可能性はある。

それを観察できるのが、ごく身近な主婦ではないか。
それなのに、なぜ主婦たる存在はこれほどにないがしらにされるのか。
子供を産み育てることも、自ら身を呈して実験しているのに等しいのに。
愛という目に見えない力を、導き良きものへとして結実させようとしているのに。

本当はそれだけでいいのに。
すごくなくてもいい。ちゃんとしていれば。


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