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“群れ”から“他を認める個”へ。ジャンヌ・モロー的自己実現とは

昨年からの緊急事態によって、我が国でもいよいよ『個性』に焦点があたってきた。今さら?という声もあるだろうが、考えてみて欲しい。ファッションの「何をどう着るのか」でも、仕事場で「どう動くのか」でも、SNS上で「どう見られたいのか」に対しても、果たして“本当の意味で解放された己の判断に基づいた選択”を、私達はしてきたであろうか。それは他のそれを見るときの自分もそうだ。かなり自由に生きてきたと思っている私でさえも、「本当に?」と問い直すと多々疑問が見えてくる。自分の中にある差別意識、不必要なレッテル、経験という色眼鏡で物事を見ていないか?自分の立場の不確実さが目立たないように、本来必要な私個人からの判断ではなく、自分の置かれている立場や、すでにある周囲との共通の枠からしか、意見が言えていないのではないだろうか。ついそんな風に考えてしまうようなニュースが、世間を賑わせている。そう、この場合の個性とは周囲の目に左右されない「個人的判断力」という事だ。

 そんな中で登場するのは、仏女優ジャンヌ・モロー。映画では、情念たっぷりの悪女が似合う。「自分を鍛え上げ、女としての魅力を身につける為に、身体で心を表現するという女優業を選んだ」と言う。自分が不美人だという事を嫌という程知っていたという十代の彼女は、厳格な父に安泰な結婚をさせられそうになるが、ふと観た演劇に夢中になり、結婚式前日に指輪を川に投げ捨て女優の道へ。猛勉強により最年少での舞台に成功。その後映画界に誘われるが、クローズアップ対応の入念なメイク下では個性が出せず、25歳を過ぎたら内面磨きと悟り大量の読書を友とする。その後の若手監督との出会いが、映画的メイクアップをやめさせ、ついに手にした「偽りのない心と体で演技をする」こと。「自分に忠実に生きることが何よりも大切」と口にするまでどれだけの決断があったのか、と気が遠くなるけれど、周囲の目を気にする全時間を捨て、選ぶべき時間の使い方は『個性』磨きではないのだろうか、と彼女を偲ぶ。

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