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そういえば京都2

京都に何度か行って、シーズンの行楽も寺巡りも買い物も、モーニングも湯豆腐も団子も喫茶店もひと段落した頃、思いたって比叡山に行くことにしました。

年々京都への欲望は高まり、あれもしなければこれも見なければ、という、当時何一つ記憶に残らなかった分刻みのスケジュール、修学旅行状態になっていたのです。
よくよく考えてみればせっかくの古都。
情緒や風情を楽しむはずが、寺や神社に行けば己の願いを叶えてくれ…と勝手にスピリチュアル化し、懇願しに行くものに変わり果てていました。

煩悩から抜け出そう。


そう決意して、京都の街中とはおさらばし、神聖な山へ篭ることにしたのです。

実はその時期、私は今更ながら浄土真宗にはまっていました。
我が家の宗教をはまっているというのも可笑しな話ですが、父親の本棚から借りた吉川英治文庫『親鸞』全3巻を何気に読み(五木寛之版しかり)改めて浄土真宗の魅力に気付いたというわけです。
元は法然の浄土宗から切り開いたのが親鸞ですが、その教えはざっくり言うとゆるい。

南無阿弥陀仏と唱えれば誰でも極楽浄土へ行けるという「他力本願」
悪人だって救っちゃう「悪人正機説」
誰しも1度は聞いたことがあるでしょう。
ちゃんと習ったわけではないですが、要するに親鸞は自力で困難な修行などしなくていい。何なら悪いことしても救ってあげる。とも言っているように思ってしまうのは私だけか。
親鸞はご法度だったはずの妻帯者でもあります。
禁を侵しがちな人、いわば異端児。修行の地、比叡山から追放もされちゃいます。
それが、フィクションとノンフィクションの境である小説の中でひどく魅力的でした。
彼は、己は凡夫だと自分で悟っています。
私たちと同じ俗世にまみえた、ただの人間だと自覚しているからこそ、当時の飢餓で苦しむ貧しい人々から救いを求められる宗祖となっていったのではないか。
そして私たち凡人に対する一見優しい言葉の中に、他力ゆえに自己を磨くという、実は大きなテーマが隠されていたのでは。
私の解釈ですが。

などと、決して宗教が語りたかったわけではないのに脱線してしまいました。

✳︎✳︎

親鸞の修行した道のりを闊歩する。
その目的のため二泊三日で比叡山の宿泊施設へ。
そこでの食事はもちろん精進料理。近くにコンビニなどありません。
朝早く起きて、食事の前に散歩をする。
空気は清々しく、山の木々から匂い立つように湧き出る白いもやは、どこか神がかった雰囲気を作る。イメージ通りではある。
しかしいかんせん、お腹が空いている。
やはり精進料理では満腹にならないのかなぁ…
嵐山で食べた天ぷらが美味しかったなぁ…
六曜社のドーナツが食べたいなぁ…と、早くも思考は、ザ・煩悩へ。
根本中堂の荘厳さに心打たれつつも、足裏の冷え加減は尋常じゃない。早々に立ち去って、とりあえず事前に押さえた観光場所へ足早に訪れる。

しかし比叡山は案外広い。
悠長に観て回るのに、二泊三日の行程はキツイのでは…と、いやな予感がし始めました。
それは早くも的中し、シャトルバスの時間を見極めての行動は、もはや恐れていた修学旅行スケジュール。横川、西塔等々、方々に散る名所を急ぎ足で訪れ、お土産も買わなきゃ、スタンプも押さなきゃ、何より充実しなきゃ!のプレッシャー。
煩悩を遮断するため望んだはずの行が、下界と大差ない欲のかたまりへ。そうなるともはや親鸞もへったくれもなく、小刻みなルーティンに、早く街に戻って俗世の喧騒に触れたい…とまで思う始末。

結局、当初の目的を思い返すことは皆無に等しく、比叡の山からすごすごと下山する様は、まさに敗北者。
リベンジすら考えもしませんでした。
煩悩を封じるということはいかに難しいことなんでしょう。身に染みる旅でした。

京都の中心地に降りたって、心ゆくまで煩悩に身を委ねたのは言うまでもありません。

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