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自然主義短歌って??(2022.4.1の日記より)

先週買ってきた歌書をパラパラとめくってみる。
その中の2冊は均一(100円)。1冊は綺麗だけど1冊はだいぶボロボロ。ちょっとアレなのでグラシン紙でカバーをかけてみた。

前田透の『短歌と表現』。
あちこちに書いたものをまとめた本のようで、4つに分かれた最初は入門的な話。次が近代短歌について。3つめがエッセイ的なもので、最後は東ティモールを再訪したときの覚書のようなもの。

後半が断然面白そうなんだけど、今日は二つ目の近代短歌についての部分、特に前田夕暮について触れられた部分を読んでいった。

「自然主義」って、定義が難しい。
自然主義かー牧水・夕暮だよね。啄木もそうだよね。空穂も関わってるよね、という感じで、なんとなく「自然主義の歌人」って括られるけど、空穂系の私は「空穂は自然主義だよね」と言われると、??? となってしまう。
そもそも、西洋の運動をそのまま(しかも明治時代とかに)持ってこられるはずがないし、さらに短歌と他ジャンルは勝手が違うだろう(西洋に短歌はないしな)。
これはモダニズムとかもそうなんだけど、ほんとのところなんとなく知ってる顔をして雰囲気で言葉を使ってるところがある。

それを、前田透はわりとはっきり定義してくれていてよかった。
透は、自然主義短歌をこう定義している。

人間の内なる自然を、人工を用いずそのまま表出するということ

これだけ読むと訳が分からないけど、当時の状況に照らし合わせてみると、結局浪漫的な方向から現実的な方向への美意識の変革なのだという。

具体的には、明治33年にできた「明星」が、虚構的・仮構的な美を描いてそれまでの短歌の世界に革新をもたらしたのだけど、それが真似されることでどんどん虚飾化、俗化していって、そこへの反発として写実や自然主義、生活派やデカタンなどが生まれていった。
それは具体的には、空穂、善麿、茂吉、そして牧水や夕暮であって、それは作者の内部から発せられる美の表出、美意識の革新なのだということ。

用語がちょっと分かりにくいけど、端的に言うと、鉄幹・晶子の明星系が鼻持ちならない感じになってダサくなってきて、こんなのは俺たちの美じゃない、もっと心からの驚きや、生活や、社会への視線や、そういった内部からの感覚、作り物ではない感動から生まれた歌がいいんだ、と言う感じ。(ちなみに空穂は34年に明星を退社しているので1年いたかいないか。違うって思ったんだと思う。デビューが明星なのは確かだけど、地方にいた青年がほかにどこを知れたはずもなし、明星系って言われたらビックリすると思う。)
※為念、鉄幹・晶子自身の歌はいいですよ!

対立軸を設定すると分かりやすいわねー。
結局、いつでも振り子のように虚構と写実、浪漫と現実って行ったり来たりするのよね。
それって結局、山に登るのに右側のルートを取りますか、左側のルートを取りますか、ということだから、「いい歌」という到達点は一緒なんだけど、どんな優れた歌人だって作る歌全てがクリーンヒット、という事にはならないわけだから、それぞれの作り方が存在する。

明星だってそれまでの旧派の作り方からしたら画期的で、だからこそ人々は飛びついたんだろうし、美意識をどこに持つかは戦争や大災害といった外的な(社会的な)動きとも関わって来る。
そういう大小の揺れの中で迷いながら試行錯誤して、やがて自分の文体を獲得した人が歌人として自分の足で立っているのだろうね。

だから、自然主義なんていう西洋文学や小説の用語はほっといて、明星に飽き足らない若者のなかで色々な短歌が模索された、と捉えるのが正しいのだろう。
この時はその必然で生まれたアララギが力を持っていって、昭和の初めには今度は反アララギの動きが出てきて、自由律短歌なんかが生まれてくる。

そう考えるとそのゆらゆらは今も続いているわけで、ぐっと身近に感じてしまうなあ。

今日はあと服部躬治(躬が出なくて凡河内躬恒と入れた私・・・)について調べた。なんかちょくちょく見る名前だけど、情報はあんまりなかった。
こういうの大熊信行もそう。名前は見るのに、作品も見ないし、途中で短歌の世界を離れてだからお弟子さんなんかもいなくて語られない。でも、どうもなにか重要な人。
なんかモヤモヤするけど、自宅ではここまでだな、という感じ。
だいぶ年上の人なら色々知ってるんだろうけど、集まりがないからなー。