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断片 遊ぶこと長く -ワナビ小説講座-

 幸運だったかどうか、いや確かに幸運か、少年期にテレビゲームを与えられてからというもの、ずっとそうしたゲームで遊んでばかりいた。いつまでやっていたかはあまり覚えていないが、たぶん二十歳くらいまではどっぷりだったんじゃないか。テレビでパソコンでと日々ゲーム漬け。なかなかのゲーマーだったのだ。小説を書き始めるとゲームよりおもしろくなっちゃったんで自然とシフトした。それでも原体験のところではゲームで遊んだというのは大きい。いまでも影響がある。ペン類に武器の名前とかつけてみたりする。ロンバルディアだのアンビシオンだのブリュンヒルドだの。腕時計はジョブで分けてみたり、フリーファイターとかデザートガードとか武装商船団だとかね。ネタわかりますかね。ゲーミフィケーションの類だといえば聞こえはいいが、このように中二を引きずっている面はある。遊び心だといいたいが実際ただの中二である。自覚はしている。

 承前。そこまで影響を受けたゲームというもの、これで何もプラスがない無為の遊びというわけでもない。楽しんだということが大切だ。楽しまなければ、何が楽しいことなのか自分でもわからないだろう。ゲームは楽しい遊びだった。そのワクワク感を小説に出せればいいと思う。何しろ楽しさについてはよくわかっているのだ。遊ぶこともそんなに捨てたもんじゃない。少年期に仕込んでおいてよかったことのひとつだ。最上級の環境は世界文学全集が家にあることだったろうが、いかんせん実家の人々は読書家ではなかった。そこは惜しい。だが無限のごとくゲームで遊べたこと、これはいま役に立つことだと思う。遊びとは何か。楽しいとは何か。何が美しいのか。何が正しいのか。何が快感か。解決策を探すこと。有利な条件をつくること。作業としてザコキャラを倒し続けること。課題をクリアして最終的な目標へ向かうこと。それらの疑問や関門は訓練されて身についた。かつてゲーム脳というものが話題になったことがあるが、あれは気にしなくていい。あの医者はゲームを知らぬ。ゲームの沃野を知らぬ。あんなに知恵を絞って努力して、遊んで、そうして思い出がたくさんあるんだからいいじゃん。ひょっとすると読書の代わりともなっていたかもしれない。

 承前。同じようなことをいうが、ゲームは楽しかったがゆえに小説の役に立つ、と仮に決めて、これはよく遊んだことが有益だったということだ。たぶんボーっとしているよりは遊んだほうがいい。遊びは子供の仕事というではないか。あなたは子供の頃遊びましたか。楽しかったことを覚えていますか。クリエイターであればその辺の体験は重要なものとなるかもしれない。ゲームという遊びやその他の遊び、そうしたものを運よく享受できたのなら、きっと何かの折にその楽しさが甦って、表面にせよ裏面にせよ作品に現れるはずだ。そう思いたい。楽しんだもの勝ちっていうのはひとつにはこういうことかもしれない。つまらないと思いながら書いたものは本当につまらなくなっちゃうというのもよくいわれることで、書き手の気分というのは伝わる。これは本当にバレるのだ。私も昔バレたことがある。だから楽しんで書きましょう、遊びに夢中だった頃のように。

 ケンプのベートーヴェン全集を聴き直している。なんだか記憶にあるイメージよりもずいぶんあっさりしているように思う。こんなシンプルな演奏だったっけ、と思って聴き進めれば、パートによってはものすごくきらびやかな音色が飛び出してきて、そう、それをこそ求めていたという気持ち。あっさりシンプルの部分は決して奇を衒わないという演奏態度だということだろう。純粋な、真摯なピアニズム。堪能。

 今日も読書。ゲームになぞらえてみれば魔法の習得のための修行である。たぶん最終奥義がこれなんだろうという上下巻二冊、片づけてしまえ。五月のうちには終わらないだろうが、まだ六月がある。まだやれる。旅人よ計画通りにいかないことがたくさんある byブルーハーツ。



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