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『東九龍絶景』 12+エピローグ

12 ハルカの天国

 僕ら三人は廊下の突き当たりまで行き、上へ向かうエレベーターを待った。特に会話はなかった。ハルカはじっとエレベーターのドアを見ていて、カザミは腕を組んで何か考えているようなふうだ。僕はディスコの光に目の奥がやられていて、その軽い痛みに耐えていた。
 やがてエレベーターが開いた。やけに陽気そうなカップルがそこから出てきて、僕らに目もくれずふらふらと去っていった。
 空いたエレベーターに乗る。ハルカは十階のボタンを押した。ぶうん、と鳴り、昇っていく鉄の箱。
 すぐにドアが開いた。その先の廊下は九階のものと同じようなものだった。蛍光灯に照らされた白っぽいもので、何人かの男女がそこらにたむろしている。
 ハルカが先に行った。僕とカザミが追いかける。僕らを、横から見ている男女の視線を感じる。それらの視線は何かものいいたげだった。
 そのうちのひとりの男が声をかけた。
「ハルカさん、そんな若い子と遊ぶんですか?」
「そういうんじゃないよ。これ、私の弟」
「弟なんていたんだ。ふたりとも?」
「こっちが弟」と僕の肩に手を置いた。「で、そっちはその友達」
 ふーん、と男はいった。僕とカザミを見ている。
「お友達のほうはタフそうだ」
「確かにね」
「何の話なんだ?」カザミが訊いた。
「なんてことない、遊びの話よ」
 まだ目を向けてくる男の横を過ぎ、また廊下を歩いていく。そこらにいる連中が交わす話し声は気だるいものだった。虚脱しているというのか、疲労を感じる。
 ハルカがこちらを振り向く。
「ギミタラ茶は好き?」
「好きだよ」とカザミ。僕も同じように答える。
「そう。花入りのを淹れてあげるからね」
 花入りは北部特産よ、といった。
「普段飲んでるけど、花は入ってない」
「作り方を覚えてたの?」
「教わった通りに」
 あれはお母さんのレシピなのよ、とハルカはいった。
「形見がお茶のレシピだっていうのは素敵よね」
 そういう話をしながら、あちこちから視線を向けられつつ廊下を行くと、やがて大きな両開きの黒いドアが見えてきた。
「この宝燈ビルっていう名前はね、麻雀の役から取られてるの。九連宝燈っていう大きい役があって、その役のことを英語では」
 ハルカはそういってドアの前に立った。
「ヘヴンズ・ドアっていうのよ」
 両手を使い、蝶番が軋る重そうなドアを開けた。
 薄暗い黄色の照明が天井に灯っている。ぬるりと湿った空気が肌に感じられた。イエロウのディスコと同じくらいの広さの部屋で、照らされているのは数え切れないほどのソファやベッド、そしてそれらの上で裸で絡み合う大勢の人々。照らされた裸体が無数にうごめいていた。あちこちから聞こえてくる、喘ぐ声、呻く声、叫ぶ声。
「へえ、こいつはごきげんだな」とカザミがいった。
「遊んでいってもいいのよ。誰かあぶれてるのがいるでしょ」
「うーん」カザミは部屋を見渡した。「あそこに見覚えのあるかわいいのがいるんだけど、取り込み中だな」
 カザミの指差したほうを見ると、この宝燈ビルに案内してくれた黒髪の女がいた。髪を振り乱し、寝そべった男の上で動いている。僕はその女の裸を見つめた。女の裸というものは初めて見た。
「ソラも興味があるのかな」
 ハルカが楽しげにそういった。僕は首を振る。だが興味がないといえば嘘だ。忌々しいと思ったが、それは僕自身が興味を覚えたことについてなのか、この大勢の絡み合う光景に対してなのかわからない。
 近づきたいのか、汚らわしく思うのか。
「ソラはともかく、カザミくんは行っておいでよ。こういうの好きそうだし」
「バレてるなぁ」カザミはニヤけた。「そしたらまあ、ちょっと遊んでくる」
 そういって裸の男女の群れに入っていった。照明の暗さのせいで、カザミの姿はすぐに見えなくなった。
「さて」とハルカ。「姉弟水入らずね」
「姉さん、ここは嫌だ」
「いいところだと思うんだけど」
「……」
「この部屋はひとつの結論なの。人間は動物を超えられないということの、ちょっと悔しい解答。性欲という原則をまだ破れなくて、私にはこれ以上のものは作れない」
 天国の形よ、といった。
 これが天国なのか?
 あちらこちらから聞こえてくるあれは体液の音だろうか、あれは肉を打つ音だろうか。すぐそばのソファで腰を振り立てる男の、その下にいる女の苦しそうな顔。いや、苦しんでいるのではないのだろう。
 悦楽の顔なのだ。
 見渡す限り肉体の海だ。明かりがうっすらと照らすそのうねりは、何に似ているというのでもない、こういうもの、というひとつの意味を感じさせた。これをなんといったか、と思いを巡らす。いつか読んだ本に書かれてあったはずで――。
 やがて思い出した。
 乱交というものだ。
「なんだか不快だよ」
 子供ね、と興ざめしたような声でハルカはいった。
「わかった、場所を変えよう。私の部屋に来ればいい」
 こっちよ、といって部屋の中を突っ切っていく。僕はそれについて歩く。両側に肉体の動きが見える。男や女が立てる声や音が聞こえた。雑音のようで、しかしそれぞれが響き合っているような感じもした。それが滑稽なように思える一方、エロティックというのはこういうことかとぼんやり考えた。
 ハルカはするすると流れるように歩いて行った。この部屋の状況は見慣れているのだろう、まったく注意を払っていなかった。ソファやベッドの群れを通り過ぎ、部屋の奥まで歩いた。
 奥に見えていたのは黒い壁のようなものだったが、近づいていくと巨大なカーテンなのだとわかった。ハルカがそのカーテンの中央を両手で開いた。重そうな布地だ。カーテンの裏にはドアがあった。ハルカは鍵を差し込み、ドアを開けた。
 風が吹き抜けた。
 黒でまとめられた内装の、おとなしい部屋だった。あるものといえば正面の、開かれた大きな窓、机と肘掛け椅子、いくつかの洋服箪笥と、その上に花瓶がたくさんあり、いくつものギミタラの花が活けられていた。黒い部屋にそのオレンジ色の花弁が目立つ。
 ハルカは部屋の中央へ歩いて行った。半分開けられた窓からの風でその髪が柔らかにたなびく。
 窓際に立ち、おいで、という。僕は近づいた。
 ハルカの横に立つ。窓は天井から足下まであるもので、低い手すりがあった。
 窓の外を見た。
 この十階から見えるのは、闇夜の中、遠く下のほうにある屋台や建物に灯る、きらめく明かりの数々だった。財宝がひしめく宝石箱のようだ。蝋燭の火のようにゆらゆらと動くものもあるし、とても強く光っているものもある。光の色は赤や緑や青など、さまざまなものだった。部屋や看板や街灯など、眼下の街に点々とあるそれらの光の上には、もう雲がかけらもない晴れた夜空があった。そこには月と星が強く光っていた。
 遠く地平線のほうにもうっすらと光が見える。僕とカザミがやってきたところ、南部だろう。
 さっきの大部屋もすごいんだけどさ、とハルカ。
「この眺め、絶景でしょう?」
 ハルカはそういうのだが、絶景というのなら僕はもっといろいろ見てきた。喧噪のカジノ、ナイフの工房、外国人の群れる道とカザミの大技の数分間、ゴミ処理場そばの黒いビルの群れ、母を弔った教会、ギミタラの咲く墓場、赤い土の地面と大穴、ビイ医師の病院。
 それらを見てきた旅だった。だが旅の最後、目的地に着いて見るこの景色は、何に劣らず絶景といってもよかった。
 何もいわずしばらく眺めていた。だが、やがていわなければならないことを思い出した。
「父さんを殺しかけたよ」
 ビイ医院で見た父の姿を思い出して、記憶のノイズの中にすっと見えた父を意識しながら、それだけをやっといった。
 へえ、とハルカ。動じていないようだ。
「どっちの?」
 そう訊かれたが、質問の意味がわからなかった。
「私の父親か、あなたの父親か。私たちはお母さんは同じだけど、タネは違うのよ。知らなかった?」
「……知らなかった」
「私の父親なら病院送りにしたけど、そっちのことかな。麻薬と拷問の実験台にして壊れたほう」
 僕はぎこちなく頷いた。
「じゃあ、僕の本当の父親は?」
「さあ。案外近くで見守ってくれてるんじゃない? イズキじゃないけど」
 そういわれて思い出す。屋台街で、あの酒飲みの男はなぜあんなに親切にしてくれている?
 お茶を淹れるよ、といってハルカは部屋の端へ行った。そこは簡単なキッチンになっていた。薬缶を火にかけ、瓶に入った葉をポットに入れた。
 湯が沸くのをふたりで待つ。
 火を見ながらハルカがいった。
「お母さんの仕事は知ってたよね。ああいう仕事だから、どんな妊娠の仕方をするかなんてわからないのよ。貧しいっていうのは嫌なものだわ」
 私を産んだときの年齢を知ってる? と訊かれ、わからない、と答えた。
「十二歳よ。ソラは十六歳のときの子」
 そんな若さで出産すれば早死にもするわね、といった。
「そのあと二四歳で死ぬような人生で、一体いつ幸せだったのかわからない。私やソラのことが救いになれたのもしれないけど、それでもね、私にはいろんなことが許せなかったな」
 薬缶が湯気を吹いた。ハルカは火を止め、煮立った湯をポットへ注いだ。ギミタラ茶の香りが広がる。花入りのものは、葉だけのものより甘く爽やかな香りだ。
 お茶はふたつのカップに注がれ、ハルカはそばの花瓶からギミタラの花を摘み、それぞれのカップに一輪ずつ落とした。
 本式よ、という。
「乾燥させた葉と花、それに加えて摘み立ての花。こうするのが一番おいしいの」
 僕はキッチンに近づいていった。湯気の出るカップからは強い香りがした。カップの中でギミタラの花は色を変えていた。明るいオレンジ色から琥珀色へ。
 手ですすめられ、僕はカップを取った。一口飲む。味が濃い、というのが最初の印象で、その甘い味のあとから鼻腔を抜けて強く香った。墓守のタカマさんに振る舞われたのもおいしかったが、ハルカが淹れたほうがずっといい。おいしいよ、というと、ハルカは微笑んだ。
 何か話すべきことがある気もしたし、もう十分話した気もする。だが僕らは、ギミタラ茶を飲みながら、キッチンで何気ないような話をした。僕は旅のことを、ハルカはここでの暮らしのことを。
 ここで何をしているのか、ということでは、何かの仕事や役目があるわけではないらしかった。好きなようにやってるよ、という。息のかかったあのカジノや、ディスコの売り上げ、麻薬売買――麻薬の作り方は知っているという――でのカネが入り、ラジオへの出演では物語の朗読をし、この部屋では読書をしていて、ときどき技術屋と話をする。
 技術屋たちは観察者の役目も持っているそうだ。
「南部の状況をレポートしてくれているの、どんな事件があったか、珍しい動きはないかとか。私の実験の様子を、動画や写真つきで伝えてくれる」
「ただ機械を修理してくれるだけの人たちだと思ってた」
「そういうメンテナンスも得意だね。外の技術だから貴重よ」
「東九龍の外?」
「うん。ずっと離れたところの、居住の許可が出てるところ」
 僕らはカップを置き、キッチンから離れた。窓のそばで僕と並び、夜景を見つめてもう少し話した。ハルカの声にはあまり抑揚がなく、少し眠いような、気だるいような喋り方だ。
 窓から僕の背後に移動して、ハルカは僕を抱きすくめた。背中に懐かしいようなぬくもりを感じた。何かいいたそうでもあったが、結局ふたりともなにもいわず、僕らはしばらくそのままでいた。
 やがてハルカは、おしゃべりだけしに来たんじゃないでしょ? といって腕を解き、身を離した。
「うん、読みたいものがあるんだ。姉さんが盗んだって聞いて、それで来た。悪魔の道の本」
「邪書のこと?」
「そう、邪書を読みたい」
「わざわざ取りに来るとはね」
 見せてあげる、といってハルカは机の前に行った。こちらを向いて目で呼んだ。僕も近づく。
 机の上に、放り出したように黒い板が置かれていた。板状のもの、としか見えないが、これがどうしたのだろう。
「これが邪書」
 板を手に取って、胸元に軽く掲げてそういった。
「タブレット端末っていうの。小さいコンピュータね」
 板の表面に貼りついている蓋のようなものを外した。ハルカの手の中で板が光った。その光る表面にごちゃごちゃと絵が描かれている。これはテレビのようなものなのだろうか?
 ハルカは表面に指を滑らせた。表面の模様が変わる。
「国会図書館を知ってる?」
 知らない、と答えた。ハルカは邪書の画面を見ながらいう。
「日本国内で出版された本が全部保管されてるの。いつだったのかは知らないけど、それがデジタルデータになったのね。紙だけじゃなくコンピュータでも読めるようになった。もちろん個人が使うには制限はあるんだけど、技術屋がサーバー直結のバックドアをつないでくれてね――ハッキングよ――簡単なスクリプトで検索するだけで何でも読める」
「よくわからない」
「だからね、このタブレットで読めるのよ、この国のすべての本が」
 イズキがビビったわけがわかるでしょ、といった。
「これに比べれば、あいつの図書館なんて取るに足らないから。どんなものも読めるよ。悪魔学の魔導書でもゲリラ戦の教科書でも洗脳プログラムの研究書でも。何でもありだから悪魔の道なんて呼ばれるのね」
 ハルカは邪書の役立て方をひとつ語った。メタンフェタミン――覚醒剤だ――の作り方を邪書で読む。実際に作って売る、またはブローカーにその作り方を売る。作って売るのは、北部に来てからハルカが最初に手がけたことだそうだ。
 指先で表面をなぞると、映るものが切り替わる。ハルカのその操作を見ていると、やがて表面に、白地に黒くまっすぐに並んだ文字列が出た。
「ほら、こういうふうにして読めるの」
 表面を向けられ、僕はそれを見た。普通の本と同じように文字が並んでいる。それは何かの小説のようだった。白い画面はほのかに光っていて読みやすい。
 これで日本中の本が読めるのだ。本当だろうか、という気がしないでもないが、ハルカは嘘をついてはいないだろう。
 欲しい。
「持って帰りたい」僕は力を込めてそういった。
「読みたいから?」
「うん、読みたい。それが欲しい」
「どうして」
「……知りたいから。僕には知らないことが山ほどあって、その無知を僕自身許していない」
 ハルカは驚いたように目を大きくした。それから、やっぱり私の弟ね、といった。
「でも、これはチューンされた貴重品なの。断る」
 きっぱりとした口調に、絶対に渡してくれない気配を感じ取った。だったらいっそ力づくで、と僕は腰に手をやった。フェンシングの構えで、と思い出したが、腰にナイフはなかった。
「これ?」
 ハルカの右手に僕のナイフがあった。抜き取られていたのだ。恐らくさっき、後ろから抱きすくめられたときだ。
「きれいなナイフよね。没収する」
 僕は次にポケットに手を入れた。銃を掴み、ハルカに向けた。照準を合わせようとするが、手が震えてうまくいかない。
「物騒なことしないで」手の中でナイフをくるりと回す。
「ナイフ投げは得意なの。ブッ刺すわよ。それにその銃、弾は入ってるの?」
「一発入ってるよ」
 とカザミの声がした。いつ部屋に入ったのかわからなかったが、ハルカの背後にシャツをはだけたカザミがいた。包帯を巻いた右腕を絡めるようにして、ハルカの喉もとに自分のナイフを突きつけていた。
「親父さんのところでは、銃声は一発しか聞こえなかった。その銃は二発入りだから一発残ってる。計算合ってるかな?」
「ご名算」ハルカはどうでもよさそうにそういった。
「動くなよ。刺さっちまう」
「困ったわね」
「困ってるのは俺も同じだ。この姉弟喧嘩に首突っ込んでいいのかどうか」
「あっちで遊んでたら?」
「いや、なんつーか……北部の女はつまらねえんだ。女は南部のがいいな」
「侮辱するのね」
「ああ、いろいろユルい女たちだったぜ。たぶんさ、愛がねえんだよ。あんたもかな?」
 ハルカは、ふーっ、と長く息を吐いた。落ち着こうとしているように見えた。カザミを無視することに決めたらしく、喉にナイフを当てられたまま、銃口を向けている僕に話した。
「ひとつ、変な質問をするわね。邪書は悪魔の道だとかいってたけど――まったく、イズキのいいそうなことね――人間が書いてきたものをそう呼ぶのなら、人間がそのまま悪魔ってことじゃない?」
 そういってナイフを持っていない左手を、肘を曲げて軽く上げる。指先が細く、白い。カザミのナイフが食い込む。ハルカは怯まない。
「そして悪魔は神の敵っていうことになってる。人間は悪魔として神と敵対しているか、って考えていけるけど、でもね、そもそもその神については意見が分かれるのよ。神が実在して人間をつくったのか、人間が神を脳内で空想しているだけなのか、それは宗教と科学の対立でもあるんだけど。ソラはどう考える?」
 僕は黙っていた。三人の息遣いが部屋の中でかすかに聞こえた。
「答えないのが正解よ。感覚と立場だけが世の中にたくさんあって、唯一の答えなんてないもの」
 そうしてハルカは口元を緩ませた。でも、という。
「正解してくれて嬉しいな。ねえ、ソラ、私と一緒にこの東九龍を」
 銃声がした。その音は僕の手にある銃から発せられたものだった。撃つつもりはなかった。うまく狙えてもいなかったため、弾丸は誰にも当たらず、ただ洋服箪笥の上の花瓶を粉々に破壊しただけだった。
「人の話を銃声で遮るなんて……ひどいセンスね」
 横目で割れた花瓶を見て、あれも気に入ってたのにな、といった。
「ちょっとキレそうだな、私」
 思い出した。ハルカは、とても静かに怒ることを。
 僕は慌てた。カザミのナイフに殺気を感じないのか、もう喉もとに注意を払わず、僕のほうへ踏み出した。顔はまったくの無表情で、それは腹の底から怒っているということだ。カザミが、止まれ、というが、まったく構わず僕に近づいてくる。振り切り、押し通ったことでナイフがかすったのか、白い首筋が少し傷ついたようだった。そこからひとしずくの血が流れている。睨みながらこちらへ来る。気圧されて僕は後ずさった。もう僕に武器はない。戦えない。背後の窓からのわずかな光、それに照らされたハルカの顔を見て、恐怖と共に言葉が浮かんだ。
 ――悪魔。
 ナイフを持った腕が振り上げられた。僕はさらに後ずさった。窓の低い手すりが膝の裏に当たり、がくん、とバランスを崩して足を踏み外し、ビルから落下した。落ちる寸前に見えたのは、カザミの慌てた顔と、ハルカの冷たい、目もとだけでの笑顔。
 体に風を、空気を感じた。大きな月が見えた。星が彩る夜空に突き刺さった、鮮やかな、銀色に光る三日月だ。僕の体は空気を切り裂いていく。闇の中を落ちながら思った。死ななければいいな、とだけ。



エピローグ

「十階から落ちたんだね」
「そうだよ。看板とかにぶつかりまくってたんだって」
「それで衝撃が和らいだのか」
「よく生きてたもんだよ」
「だから行くなといったんだが。こんな大怪我をして帰ってくるとはね」
 そういう話し声が聞こえて目を覚ました。目と首を動かして、ここがどこかを知ろうとした。すぐにわかった。南部の僕の部屋、512号室だ。
「起きたか」
 ベッドのそばにいたイズキさんがそういった。その横にカザミもいた。僕は横たわっているベッドから出ようとしたが、脚が動かない。見ると右脚が包帯に巻かれ、ギプスもつけられているようだった。体のあちこちのじりじりする痛みは切り傷や擦り傷といったところだろう。
 記憶を探る。宝燈ビルから落ちて、月が見えて、それからどうしたのか。
 詳しい話をカザミから聞いた。イズキさんもそれを聞いていた。
 僕は落下して、ビルの壁から出ている看板や屋根などをたくさん壊しながら、フルーツ屋のワゴンの中に突っ込んだらしい。怪我は右脚の粉砕骨折、肋骨も数本折れて、それとあちこちの打撲、細かいいくつもの傷。落ちてからビイ医師のもとに運び込まれ、鎮痛剤のドクター・ビイ・スペシャルとやらを打たれたそうだ。その後処置をされ、カザミに背負われて南部へ帰ってきたという。
「ソラがやせっぽちで助かったよ。それでも運ぶのは大変だったけどな。フルーツくさかったし」
「カザミ君、他に何か危ない目には遭わなかったか?」
「別になんもないな」
「本当か」
「マジだって」
 イズキさんは、よかった、といって溜息をついた。だいぶ心配をかけたようだ。こんな姿で帰ってきたことも驚かせただろうし、申しわけない気分だ。
「すみません、イズキさん」
「謝ったって、済んだことはどうしようもない。生きて帰ってこれたんだからそれだけでいい」
 痛みはないか、と訊くので、あまり痛みはない、と答えた。あの怪しげな鎮痛剤が効いているのだろう。
 背中も打ったのだろう、体を起こすことができない。首と目しか動かせない状態でふたりと話した。イズキさんは叱責こそしなかったが、やはり北部へ行ったことはよく思っていないようで、小言はたくさんいった。
「君の世話役としては、健康で安全に成長していってほしいんだ」
「すみません」
「鬱陶しいかもしれない。でもね、親心ではないが……心配したんだよ」
 僕は謝り続けるしかない。あんまり小言が続くのでカザミが止めに入った。
 やがて部屋からイズキさんが去り、僕とカザミだけになった。ベッド脇に座ってカザミがいう。
「すげえ旅だったな」
「うん、二度とできないね」
「そりゃまあ、こんな怪我をするくらいじゃできないよな」
 窓から陽が差している。たぶん午後の日差しだ。
「リュックも持ってきたよ。あっちに置いといた。ラジオも入ってる」
 それと、といって、ガサガサと音を立てて紙袋を取り出した。
「これはみやげだ」
 手は動くか、と訊かれ、僕は両手を差し出した。紙袋を受け取る。
 中には邪書が入っていた。
 驚く僕にカザミが説明した。
 僕が宝燈ビルから落ちて、カザミはすぐに地上に降りた。僕を探してビイ医院に担ぎ込んで、処置が済んだあとハルカがそこに来たそうだ。ビイ医師に容態を訊いてから、カザミに紙袋を渡した。
「なんていったっけ、レンカバン? 安いやつだって。自分のはあげられないから、だってさ」
 廉価版の邪書のカバーに、メモが貼ってあった。

 Happy BirthDay!
 少し遅れたけど、十三歳の誕生日おめでとう。がんばって北部まで来たソラに、このタブレットをあげる。国会図書館に繋がるようにはしてある。たくさん読みなさい。
 そうしてあなたの世界を開くのよ。
 それと。
 怒っちゃってごめんね。
               ハルカ

 メモをはがしてからカバーを開く。表面に現れたのは白っぽい光と、いくつものボタンらしきもの。
「本当に邪書なのか」
「そうだと思う。操作さえわかれば使えそうだよ」
「難しそうだな、その機械」
 そんな話をしているところへ玄関のチャイムが鳴り、僕の代わりにカザミが出てくれた。向こうでカザミと話したあと、寝室に連れられてきたのは、屋台街のあの酒飲みの男だった。
 僕の姿を見て凍りついたが、やがて話し出した。
「大怪我だな」男はいった。「治るのか? 痛くないか?」
 だいじょうぶですよ、といったのだが、聞いているのかいないのか、声を張り上げた。
「ソラ! 俺はお前が治るまで酒をやめるぞ。いいか、酒をやめるんだ。それで酒代をお前の治療費にしてやる。いい医者がいるなら連れてきてやる。わかるか、お前を、お前の怪我を治して」
 だんだん泣き語りになってそういうことをいうので、僕もカザミも笑った。
「すぐ治ります。治療費だってそんなにかからないですよ」
「脚がこんなじゃないか。折れたのか? こんな、こんなになって痛いだろうに」
「平気ですってば」
「落ち着けよおっさん。これはソラの名誉の負傷なんだよ。勲章だ」
「落ち着かねえよ!」男は叫んだ。「ソラにこんなことをしたやつをな、ビール瓶で、中身の入ったビール瓶だぞ、禁酒するから中身なんてどうでもいいんだ、その瓶で俺は、いいか、そいつの頭をガツンとやってやる!」
 涙と鼻水と汗でぐちゃぐちゃな男を、カザミはなんとかなだめて、少し冷静になったところで玄関まで送っていった。
 戻ってきたカザミがいう。
「ソラのこと大好きだな、あのおっさん」
「うん、それはさ」
 といいかけて、やめた。
「なんだよ」
「確証がないからいわない」
 あの人が僕の父なのかもしれない、とはいわなかった。はぐらかされたカザミは怪訝そうにしている。
 陽が傾いてきた。西日が窓から差している。ラジオを聴くか、とカザミがいった。
「夜になったら聴くよ。姉さんのコーナーをまだ聴いてないし」
「じゃあ、近くに置いとくか」
 カザミはリビングへ行き、ラジオを持って戻ってきた。それを僕の枕元に置く。椅子に座ってそれを眺める。
「俺も欲しいな、ラジオ」
「あげようか?」
 カザミは考え込んだ様子だったが、すぐにいった。
「自分で買うよ。明日からまたカジノで仕事する」
 それから名残惜しそうな声で、じゃ、帰るよ、といって立った。
「カザミ」
 声をかけると、ドアの前で振り返った。
「たくさん助けられた。ありがとう」
 カザミはニッと笑った。
「なら、俺はソラにこういうね。楽しい旅をありがとう」
 そういって立ち去った。
 赤い西日の中、僕は天井を見ていた。何を考えるというのでもなく、思い出すのでもなく、ボーッとしている。枕元にラジオがあり、その横に邪書がある。手を伸ばし、邪書を手に取った。
 操作だけだ。操作だけがわかればこれでなんでも読める。
 ここを僕の象牙の塔にしよう。ありったけを、読める限りを読んで、僕の世界を開こう。そうして僕は何者かになるだろう。それを成長というのか変身というのかは、正確にはわからない。だが、まだ知らないことをこれから知るというのは確かな変化だ。そのことはわかっている。
 夜になっていく。
 部屋の下の、屋台街の喧噪を聴きながら、じっとハルカのコーナーを待っていた。頃合いを見てラジオをつけた。イエロウの案内があり、ハルカは朗読を始めた。遠い異国を冒険する、少年の物語だ。

〈了〉

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