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『東九龍絶景』 10

10 ドクター・ビイのコーニー・ハッチ

 街は、雨のせいで霧に包まれているように見えた。まっすぐに見すえて、まっすぐに向かう。アスファルトのそこかしこに穴があり、水が溜まっていた。足を突っ込まないように気をつけた。
 濡れた前髪が邪魔で、かき上げながら歩く。一方カザミは、雨など降っていないかのようにただ歩く。腹がへったことを繰り返しいいながら。
「これでメシがまずかったら、キレるぞ俺」
 さっき叫ぶほどキレていたことにはふれずにおいた。
「きっとおいしいよ。おもてなし、っていうし」
「おもてなしってなんだ」
「サービス精神があるらしいよ。日本には」
「俺らずっと日本にいるじゃん。この東九龍が日本にあるんだろ」
 そうなんだけど、と僕はいう。
「なんていうか……日本の伝統みたいなのは、少なくとも南部では見たことがない」
「おもてなしもか」
 僕は頷いた。日本ってなんなんだよ、とカザミは呟いた。僕は答えられない。
 顔に流れてくる雨をぬぐいながら進む。目にも入ってくる。いくらまばたきしてもだめで、次第に痛くなってきた。自分ではわからないがきっと充血している。
 街に近づくにつれ、その大きさがわかってきた。建物が密集して、いまにも倒れそうなほど高く、幅がとても広い。痛む目で見る。様々な色の、けばけばしい看板が張りついている建物の下に、入り口らしきものがいくつかあった。その周辺では雨合羽を着た人たちが行き来している。露店が店じまいしているのは雨のせいだろう。ビニールシートがかけられ、紐で固定されていた。
 かすかな悪臭に覚えがあった。南部と同じにおいだ。
 入り口に立ち、街を見上げた。壁の窓などは見えるが、建物のてっぺんは高すぎて見えない。悪臭の先に食べもののにおいを嗅ぎとった。熱湯で何かを茹でているような、そういうにおいだ。
 人々の往来の中にいると、肩がぶつかったり靴を踏まれたりして落ち着かない。さっと入り口の中へ行った。
 中までは雨が降ってこず、せいぜい滴る程度だった。そこは狭い通路になっていた。上にはプラスチックらしき屋根や無数のベランダがあり、通路を覆うようになっていた。
 濡れている地面はゴミだらけだった。ここも南部同様、掃除がされていない。
 さて、とカザミがいった。
「まずはメシだな」
「さっきいいにおいがしたよ」
「近くにあるのか、食堂とか」
「探してみよう」
 僕たちは暗い通路を進んだ。両脇には建物の出入り口や別の通路などがいくつもあった。住人ともすれ違う。彼らは覇気がなく、ぼうっとした顔つきをしていた。
 壁に向かって横になっている男がいて、さらに進むと同じような体勢になっている女がいた。女のそばに注射器が落ちていた。通路自体はどこも変化がなく、迷路のようで、何かの錯覚を起こしそうな気分だった。
 そうして歩き、やがて窓から湯気の出ている一角を見つけた。ボロボロの立て看板が出ている。

 A定食 肉
 B定食 魚
 C定食 肉と魚

 立て看板にはそう殴り書きされていた。僕は外から様子を見ようとしたが、よほど腹がへっていたのだろう、カザミはさっと入っていってしまった。
 古ぼけた蛍光灯の中、店内には客が三人いた。カザミについていってテーブルを見る。客たちの前にあるのは、料理の皿と白米の入った茶碗、それとスープの入った茶碗というセットのようだ。
 カウンターの中の厨房にいた店主らしき男が、いらっしゃい、と声をかけた。カザミが訊く。
「ここ、なんの料理屋?」
「普通の食堂だよ」店主がいう。
「その普通がわからねえんだ。何料理?」
 そういわれてもなあ、とうなった。
「普通の和食だよ。食うか?」
 迷っているカザミに、和食は日本料理だよ、と注釈を入れた。そうか、とカザミは頷いた。
「おっさん、おすすめは?」
「肉と魚のC定食。みんなそれしか食わないな」
「じゃあそれをくれ」
「ふたつお願いします」僕はつけ加えた。あいよ、と店主はコンロのほうを振り返って料理を作り始めた。
 そばのテーブルをふたりで陣取る。ボロボロの壁に半分破れたポスターが貼られている。美女がジョッキのビールを持っている、というポスターで、それを見て南部の屋台街のことを思った。あの人はまたいつもの屋台でビールを飲んでいるだろうか。
 客のひとりがこちらを見ていた。手入れをしていないような髪の女だ。食事は終えたようで、爪楊枝を口に差し込みながら訊いた。
「あんたたち、どこのやつら?」
 女は別段不審げでもなく、何気なく訊いたようだった。南部から来た、とはいえない。
「ここらで見ないね」
「今日はちょっと遠出してるもので」僕はやっとそれだけ答えた。
「それ、ナイフ?」
 僕もカザミも黙っている。見せて、と女が近づいてきた。カザミが椅子から立った。椅子は後ろに倒れた。両手を軽く構えた。それを見て女は笑った。
「怖がられちゃった」
 そして、マスターごちそうさま、といって、小銭をテーブルに置いて店を出て行った。
 カザミは椅子を元に戻し、再び座った。
「悪い人だったのかな」僕は呟く。
「用心しようぜ」
 カザミがそういってから、店で暴れるんじゃないよ、といいながら店主が料理を運んできた。焼いた豚肉らしきものと煮た魚がプレートの上にあり、あとから白米とスープも出てきた。
 いいにおいがする。
 いただきます、といって箸をとる。豚肉はやや辛みがあって味つけが濃い。煮てあるのは白身魚で、味が染み込んでいる。どちらもおいしかった。
「おっさん、うめえよこれ」カザミが店主に声をかけた。「なんて料理?」
「生姜焼きとタラの煮つけだ」
「聞いたことねえな」
「よくある家庭料理なんだけどなぁ。うちは高くもないだろ」
「でも、うまいよ」
 店主は軽く笑った。カザミが喋っている間に僕は食べ続けた。椀に入ったスープはよくわからない味だった。スープについて訊くと、味噌汁だよ、と答えた。
「それこそ珍しくないぞ」
 僕は、はあ、といって味噌汁を飲んだ。油揚げとわかめが入っていた。具材はわかるが、とらえどころない味のスープだと思った。
 僕たちは食事を終え、食器が下げられた。カザミは満足げだ。
「いいな、日本料理」
 僕は頷く。全体としておいしかった。フジワラさんがいっていたように料金も安い。他の店の日本料理も気になるところだ。まだいろんな料理があるのだろう。
 このあとどうする、と訊くカザミに、病院へ行こう、と答えた。
「その火傷をなんとかしてもらおうよ」
「別にほっといてもいいんだけどな」
「それと、父さんに会う」
「……会うのか? 教会のおっさん、なんかキツいようなこといってたけど」
「とにかく、病院には行こう」
 僕はフライさんにもらったメモを取り出した。病院の住所が書かれてあるものだ。
 メモには、七画十一号三〇三、とある。だがそもそもここがどこなのかはさっぱりわからなかった。迷い込むようにこの店に来たのだ。
 食事をしていた客のひとりに訊いてみる。彼はうざったそうにこちらを見て、ここは四画だ、とぼそっと答えた。今度はカザミが訊いた。
「七画はどっちだ」
「うるせえな! メシを食わせろ」
「いやいや、うるせえってこともねえだろ。教えろよ」
「マスター、こいつらを追っ払ってくれ」
「客は大事だからなぁ。追っ払うわけにもいかない」店主はのんびりと答えた。でもまあ、という。
「お前らこっちこい。俺が教えてやるから」
 僕たちは厨房へ入った。鍋やフライパン、大きなコンロなどがあった。壁には調理器具がかかっていた。
 油で茶色く汚れた壁の横に立ち、メモを手渡す。
「ああ、これはな。えーと……」
 店主は眉毛を掻きながら考え込んでいた。こういってこうだろ、とぶつぶついって、指で中空をなぞる。
 わかった、という。
「この店を出たらまず右に行け。噴水のある広場に出たらもう一回右に、でかい道を行く。その辺が六画で、どんつきまで歩いたらそこが七画だ」
 あとはわからんな、といった。僕は食事の代金を渡し、お礼をいって店を出ようとした。後ろでカザミが店主と話していた。
「メシ、うまかったよ。ごちそうさん」
「また来い。お前らは痩せすぎだ、もっと食わないとな」
「おもてなしか」
「昔はやった言葉だな、そりゃ」
 先に通路に出て周りを見る。食堂の正面には、狭い通路を挟んで雑貨屋があって、通路は横にまっすぐ伸びていた。雨が染み込んできたのか、コンクリートの地面はぬらぬら光っている。
 右だといっていた。あとから来たカザミに、あっちだね、と指差した。そうしてまた歩く。往来の人々とすれ違いながら、噴水の広場へ向かう。
 人々はカゴに入れた果物を運んでいたり、ダラダラ歩いていたりするのだが、その様子が疲れ切っているように見えて、僕は気が滅入った。
 目を見開いた男が声をかけてきた。発音が壊れていて何をいっているのかわからないが、手に白い粉の入った、小さな透明な袋を持っていた。麻薬売りだろうか。カザミがナイフを抜いて顔に突きつけると、奇声を上げて走り去った。
 通路の上にはまばらに電灯があった。暗くなった空が、たくさんの看板やベランダの隙間から少しだけ見えた。もう夕方を過ぎたのだろう。雨音が聞こえるものの、ここまでは降ってこなかった。僕たちの服も乾いてきていた。
 道の端で野犬が吠えていた。僕たちのほうを向くと近づいてきた。僕のつま先によだれを垂らして吠える。カザミがナイフの切っ先を野犬の眼前に光らせた。それでもひるまない。ナイフを構えたまま下から蹴り上げた。野犬は短く悲鳴を上げて逃げていった。
「動物にナイフは効き目がないな」
「人間にはいいんだろうけどね」つま先についたよだれを気にしながら答えた。
「ソラもさ、すぐ取り出せるようにしろよ。せっかく腰につけてるんだから」
 うーん、と曖昧に返事をし、また前へ歩いた。
 やがて通路が大きくなって、そこからすぐに噴水のある広場に着いた。中央の噴水は嗄れているようで、底が黒ずんでいるのが見えた。ふちに何人か子供たちが座っていた。服は汚れて、あるいはボロボロで、みんな靴は履いていなかった。
 四角形の広場の端にいくつか露店が出ていた。それらの調理台の表には、おでん、やきとり、などと大きく書かれている。うまそうだ、とカザミがいう。
「帰りに食っていこうぜ」
「わかった。せっかく来たんだし」
「で、ここからまた右か」
 カザミが顔を向けた方向には、僕たちが通ってきた道よりもずっと広い通路があった。そちらは人通りが多く、話し声も多く聞こえる。
 その道に足を踏み入れる。さっきよりも雨が降りかかってくる。上が覆いきれていないのだ。道の端、看板の下を選んで歩いた。それで濡れずに済んだ。
 道の両端には、電器屋、薬局、駄菓子屋などが延々と続いていた。
「買いものも楽しいかもな」とカザミがいった。「何を買えばいいのかわからねえけど」
「ラジオは?」
 僕の提案に、うん、ラジオは欲しいな、といった。
 人々の隙間をくぐり抜けていき、やがて道の行き止まりに来た。標識があった。七画と表示されていて、プラスチック製の地図があった。それを見て住所を確かめる。七画十一号三○三。
 十一という数字を見つけた。ここから斜めの方角だ。その建物の三○三号室だろう。
 行き止まりに見えたが、左を見ると、ひどく汚れた扉があった。もとは透明だったのだろうが、いまは茶色く焦げたような色をしている。
 カザミがドアノブを回した。そこはまた通路になっていた。頭の中で地図と照らし合わせながら、天井が低い中を進む。ところどころにある蛍光灯に蛾がたくさん群がっている。
 通路は迷路のように枝分かれしていた。壁には文字や絵が書かれ、ポスターや手紙のようなものが貼られていた。扉がいくつもあった。横に表札があるのは家の扉だろうか。
 幾度も道を曲がったが到着せず、カザミが不平をいい始めた頃、壁の中に看板を見つけた。
 ビイ医院、と書いてある。矢印と、住所も添えてあった。
「着いたよ」
「やっとか。で、どれが病院?」
 カザミが周りを見た。通路が四つ、扉がふたつあるのと、階段がひとつ。
「三○三だからね、この上なんだろうけど」
 といって階段の上を覗き込んだ。踊り場にまた看板があった。
「そろそろ休みたいな」
「行こう。怪我人なんだし、休ませてもらえるよ」
「ベッドはあるかな」
「たぶんね」
 階段を上っていく。二階、三階と進むと、ビイ医院と書かれたガラス戸があった。
 戸を引いて中へ入る。くすんだ白いカーテンがついたてのようにあり、その横へ回ると待合室があった。ベンチが三本、壁に小さな窓。
 すみません、と室内に声をかけた。音を立てて曇りガラスの小さな窓が開いた。中から黒い目がこちらを見ている。
「ケガをしてるんですけど、治療をお願いします」
 黒い目に向かってそういうと、窓がピシャリと閉まった。奥でガタガタと物音がして、その方向から扉が開く気配があった。よれよれの、しわだらけの白衣の医者がスリッパを引きずって現れた。
「ケガか」
 はい、と答えてカザミを目で示す。
「どんな?」
「こんなだよ。火傷しちまってさ」
 カザミが右腕を突き出した。こりゃまた、と医者はいった。
「包帯を巻いてやろう。あとはそのジュクジュクしてるのが乾くまで待て」
「それだけ?」
「痛み止めもやろうか? 俺の名前をつけた特製ブレンド、ドクター・ビイ・スペシャルっていうんだが、効くぞ」
「あまり痛くはねえな」
 じゃあ包帯だけだ、といって手招きした。
「処置室に来い」
 スリッパの音をぺたぺたさせて奥へ行った。カザミがついて行き、僕がそれに続いた。床がパステルカラーのチェックのタイルになっていて、もとはきれいだったかもしれないが、いまはボロボロと剥がれていた。
 通された部屋には机とふたつの椅子、壁際にベッドがあった。古びているが整頓されている。ビイ医師が机の前に座り、横の椅子をカザミに勧めた。見せてみろ、という。カザミは右腕を出す。フジワラさんにもらったガーゼはもうすっかり汚れていた。ビイ医師はそれを剥がす。顔をしかめるカザミ。
「気味の悪い痛さだ」
「火傷はそういうもんだ。どうしてこんな火傷をした?」
「デビルスティックでしくじったんだよ」
「ああ、火遊びのあれか。見たことがある。あぶねー遊びをするもんだ」
「あぶねーからおもしろいんだよ」
 ビイ医師は答えず、机に振り向いて薬剤らしきもののビンをとった。それを脱脂綿に含ませる。しみるぞ、といってカザミの火傷に当てる。たぶん消毒をしているのだろう。
 よし、とビイ医師。
「あとは包帯を巻いてやる。予備のも渡しておく。汚れたら替えろ」
 カザミは頷いた。器用な手さばきでくるくると包帯を巻くビイ医師に、僕は訊いた。
「あの、僕も用があって」
「どこが悪い」
「そうじゃなくて……。父がここにいると」
「入院患者か」
 包帯を巻く手を止めずに話している。
「そういうのは何人かいるけどな。親父さんの名前は?」
 僕が父の名前を答えるとビイ医師は黙った。包帯を巻き終え、よし、といってカザミの腕をバチンと叩いた。痛えよ、とカザミ。
「若いからすぐ治る。痕は残るだろうが、勲章にしろ」
「勲章ねえ」そういって自分の腕をしげしげと見る。包帯で真っ白だ。
 で、そっちの、とビイ医師。
「親父さんに会いに来たんだな」
 はい、と答える。
「人間の定義は?」
 いきなりそんなことを訊かれた。質問される理由も、正解の答えもわからないので黙っていた。
「俺はシンプルにこう仮定している。ちょっとしたレベルのコミュニケーションができるってことだ。言葉や身振り、表情、体温、気配、五次程度の志向意識水準、そういうのを相互に、ある程度の確度で伝え合えるのが人間だ」
 僕は黙っている。ビイ医師は鋭い目で僕を見ていた。
「そう定義してみれば、隠してもしょうがないからいうが、お前の親父さんはもう人間じゃない。伝え合えないんだ」
 それでも会いたければ病棟へ連れて行ってやる、といった。
「お願いします」
「わかった。ついてこい」椅子から立ち、処置室の奥へ向かった。
「なあ、俺そこで寝てていいか?」とカザミがいった。ベッドを指差している。いいぞ、とビイ医師。
「シーツがきたねえのは我慢してくれ」
 振り向いてそういい添え、急かすように僕を見た。その目つきがきつい。覚悟を再確認されているような気がした。
 奥の廊下を数歩行くと灰色の鉄扉があった。ビイ医師はポケットから鍵束を出し、鍵のひとつを南京錠に差し込んでドアを開けた。
 ドアの先にも廊下が延びていて、その両側に黒い金網がつけられていた。
 悪臭――街とは違う種類の。
「あまり周りは見るなよ。患者を刺激したくない」
 そういわれたことで逆に意識してしまう。金網はいくつもの小さなスペースと廊下を隔てていて、中にはひとりずつ患者が入っていた。みな同じ白い服を着ていた。
 ビイ医師に続いて歩いていく。床にへたり込んでいる者、ただ足踏みしている者、壊れた発音で独り言をいっている者。気分が悪くなるような悪臭に襲われつつ彼らを見る。人間の成れの果てがこれなのだろうか。彼ら廃人たちはもう、回復の見込みなどないのではないか、というように思えた。
「いしゃあああああああ」
 ひとりの患者が叫び、金網に飛びついた。掴んだ金網を軋らせてビイ医師を凝視している。ビイ医師は冷たく見つめ返した。ほんの少しそうしていて、また歩き出した。
 ある位置でビイ医師が振り返った。金網をコンコンと叩いてみせた。
「親父さんだよ。俺は向こうにいる。何かあれば呼べ」
 そういってさらに奥のほうへと行ってしまった。スリッパの音が遠ざかる。
 金網の中を見た。
 男がいた。白髪がまばらに残り、顔に巨大な腫れ物がいくつもできていて、胸元はよだれで濡れ、ビー玉のような目は何も見ていない気がした。
 何か呟いている。
「めし、めし、めし、まだ、まだ、めし、おれ、おれ、あじゅ、あつい、めし、あじゅ、あつい、おれ」
 僕は記憶をまさぐって、かつての父の姿を思い出した。それを目の前の男に当てはめる。面影が少しだけ残っていることに気づく。
 これが僕の父だ。
 父はゆっくりと顔をこちらに向けた。大口を開け、声が大きくなった。
「ソラ、ソラ、おれの、ソラ、こども、ソラ、おれの、あじゅ、あつい、こども、おれの、ソラ、ソラ」
 素足を床にこすり、一センチほどの歩幅で、ずりずりと近づいてきて金網をつかんだ。目ヤニだらけのビー玉の目が焦点を合わせずにこちらに向く。ぐしゃぐしゃに伸びた顎ひげからよだれが滴る。
「ソラ、おれの、ソラ、ソラ、ハルカ、こども、あじゅ、あつい、おれの、ハルカ、いたい、いたい、ソラ、ソラ、こども、おれの」
 僕はポケットの中に手を入れた。指先に鉄の感触があり、もう片方の手を父に差し出そうとしたが、金網が邪魔で握手ができず、ヨロシク・ショットが撃てない。
 震える両手で構え、銃口を父に向けた。
 
 目を開けると、天井の蛍光灯が見えた。
 僕はベッドに横になっていた。頭が鈍く痛む。顔を横に向けると、カザミがそばの椅子に座っていて、ノイズを鳴らすラジオをいじっていた。チューニングが狂ったらしい。
 身を起こした。全身に軽い痺れがあり、動くとあちこちの関節が痛んだ。
「起きたか、ソラ」
 ラジオから目を上げずにカザミはいった。
「お前が叫んでてさ。あの医者が、なんだっけ、チンセイザイ? を打ったんだって」
「叫んでた?」
「なんなら銃声も聞こえたぞ」
「……」
 ダイヤルから指を離し、ああ、くそ、とうなった。
「チャンネルが合わない」
 ラジオの電源を切り、そばの机に置いた。僕はぼうっとしたままだ。意識がはっきりしない。
 ここが処置室なのはわかっているが、父に会ったあと、何時間寝ていたのだろうか。鎮静剤は強力なものだったろうか。
 カザミ、と僕は呼びかけた。時刻を訊く。真夜中だな、と答えがあった。
「お前の姉ちゃんのコーナーが始まるんじゃないか?」
 そうだ。それを聴きたい。
「ラジオとって」
 んん、といって僕によこした。電源を入れ、ダイヤルを回す。ノイズの中から音を拾い、合わせる。音楽が鳴っていた。これは確かジャズというものだったと思う。音量を控えめにする。
 しばらく待っていたが、音楽が鳴り続けるだけでハルカが出てこない。
 処置室の奥から鉄扉の開く大きな音がした。ビイ医師がこちらへやってきた。
「俺がまともな医者じゃないことを自覚していうんだが」と話す。「親父さんの病状は死んだほうがマシだからな。あれが地獄だ。だからお前のやろうとしたこともありだと思うんだよ」
 安楽死ってやつだな、という。
「そういうのも優しさなのかもしれないが、ここで殺しは勘弁してくれ。これでも医者として頼られてるんだ。信用に関わる」
「……」
 ハンカチで手をぬぐい、机の前に座った。何か書類に書きつけた。そのままの姿勢でいう。
「親父さんの世話はスタッフがする。鎮静剤が抜けたら帰れよ。もう用はないんだろう?」
「もう少し、休ませてもらえれば」
 わかった、といってビイ医師はペンを置いた。
「でも俺はもう寝る。明かりはつけっぱなしでいい。適当なところで帰れ」
「おやすみ、医者先生」とカザミ。
「ああおやすみ」
 ふらりと立ち上がって、待合室の裏の部屋に去っていった。そのドアの閉まる安っぽい音。
「ソラ、銃は?」
 カザミに訊かれ、僕は外側からポケットをさわった。
「ある」
「なくさないでよかったな」という。「取り上げられもしなかった」
 そう話しているところで音楽が途切れた。ラジオの向こう、イエロウがしゃべり出す。
――さあ真夜中のラジオ・インフェルノ、いまの曲はスムースジャズっていうやつだ。眠気がくるか? 一日中働いた人には安らぎの音楽だったと思うぜ。明日も仕事だろう、そのままおやすみ。一方俺は毎日が祝日、今夜もアクセル全開でカッ飛ばしていこうと思うところさ。電波越しに命の弾丸をブチ込んでやんよ。俺の元気の源? お肌にチクリとくるいつものあれさ。ハハハ。さてそんなあぶねー俺にもお便りってえのが届く。世も末だなまったく。今夜もそれを読んでいこうかと思う。送り先は十四画宝燈ビル、ディスコ・インフェルノまで。このラジオはそこから放送してる。どしどし送ってくれ、俺は寂しがりなんでな――
 次第に体のこわばりが解けてきて、意識も元通りになってきた。いまイエロウが喋ったことを整理する。ラジオはディスコから放送されていて、場所は十四画の宝燈ビル。
 そしてハルカがラジオに登場するということは、イエロウと同じように生放送で喋る場合、ハルカもラジオの現場にいるということだ。
 カザミにそれらのことを説明した。
「姉さんに会いに行くよ」
 わかった、とだけカザミはいった。一方僕にはわかっていないことがあった。
 二発入りの銃を、何発撃った?

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