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『東九龍絶景』 2

 2 イズキのアレキサンドリア

 僕の家付近の雑踏から離れたところ、歩いて十五分ほどの場所にイズキさんは住んでいる。僕はそこへ通って勉強をしている。週に四回ほどイズキさんの授業を受ける。
 ゴミを踏み、蹴りながら進み、ビルの間を抜けて広くひらかれた場所まで歩く。三角屋根の建物が見えてくる。ここは図書館であり、イズキさんの家でもある。
 イズキさんは玄関前を箒で掃いていた。おはようございます、というとこちらを向いた。
「おはよう。今日は早く来たね」
「なんとなくです。時間まで家にいても、退屈で」
「それは?」僕の手元を見て訊いた。
「さっきガラクタ屋と交換しました」
「ラジオか」
「壊れてるみたいなんですけど」
 よし、とイズキさんは箒を柵に立てかけ、ラジオを手にとった。スイッチを押したり、耳元で軽く振ったりしている。そうしてうなった。
「雑に扱われたんだろう、たぶん中の部品が外れてるんだ。細かいのが音を立ててる」
 直せますか、と訊くとまたうなった。
「技術屋に頼もう。すぐにいっておく」
 その言葉で思い出して、電線から火花が出て騒ぎになっていたことをいうと、それも報告しておく、といった。
「とりあえず中へ入りなさい。連絡をしてから私も行く」
 敷地から出ていくイズキさんを見送り、図書館の木製の扉を開けた。
 ほこり、あるいはカビのにおいがする。三角屋根の天窓から差す光でほの明るい。館内には誰もいなかった。何列もの書棚があり、何万冊の本がここに並んでいるのだが、利用する者はあまりいない。
 棚の隙間を通って奥へ行く。裏庭に面したスペースが、僕とイズキさんの教室だ。大きな茶色の机がある。以前、ハルカもここにいた。並んで座り、ノートを広げて勉強したのだ。
 リュックを机に置き、座る。イズキさんが来るまで窓の外を見ていた。雑草が茂っている。僕の腰くらいまで伸びているだろうか。そろそろ草刈りを手伝わなければならないだろう。
 日差しの熱を肌に感じるが、暑くはない。この図書館はいつも空調がちょうどいいのだ。
 玄関のほうから足音がして、イズキさんが歩いてきた。おまたせ、といって机のそばに立った。
「ラジオはすぐ直るそうだよ。いま渡してきた。それと、電線のこともいっておいた。あのあたりはよくショートするらしい」
「大騒ぎでしたよ」
「電気が止まると大変だからね」
 イズキさんはそういって僕の向かい側に座った。そばの棚から小さなホワイトボードを取り、授業の準備をした。僕もリュックの中身を出した。
 この日は言葉の授業だった。よく、辞書を読めば足りるんだが、とイズキさんはいう。ただし何に類する言葉なのかという方向性がないと辞書も使いづらいそうだ。そこで本を用意して、その本が語る分野に絞って言葉を調べる。そういう授業だ。
 僕が持ってきた本と同じものを、イズキさんも取り出した。ここ一ヶ月ほど取り組んでいる、簡単な――とイズキさんはいうが――哲学書。具象の言葉はある程度教わったので、いまこの本でやっているのは抽象の言葉だ。
 ノートにシャープペンを走らせ、決定論、偶然性、因果律、一神教、絶対矛盾の自己同一、などと教わっていった。イズキさんがホワイトボードに魔術的観念論と書いたときに、玄関の扉がノックされ、開いた。イズキさんはボードとマジックを置いてそちらへ向かった。僕は息をついた。授業が難しい。あとで文句をいおうと思った。
 イズキさんは来客と何か話しているようだが、遠くてここからは内容がわからない。僕は目をこすった。活字を凝視して疲れていた。
 開かれた本とノートをぼんやり見ていた。ノートはだいぶ使い込んだ。角が折れ、表紙には傷がつき、残りのページは三分の一といったところだろう。
 これが何冊目のノートだったかを思い出そうとした。二〇冊やそこらだろうか。努力したような気がする。
 イズキさんが戻ってきた。手にはラジオがあった。
「技術屋が届けてくれたよ。修理できたそうだけど、受信できる周波数の範囲が狭いらしい」
「いろんなチャンネルは聴けないってことですか?」
「そうかもしれない。チャンネル表をもらったから、試してみるといい。休憩にしよう」
 そういって座り、棚からビスケットの袋をとった。パッケージの言葉は読めない。外国のものなのだろう。僕は水筒をとり出した。イズキさんにも勧めると、棚から湯飲みをふたつ出した。
「ソラのギミタラ茶はおいしいな」ビスケットをかじり、湯飲みに口をつけていった。「口の中がひんやりする」
「昔、作り方を教わったんですよ」
「ハルカに?」
「はい」
 イズキさんは表情をなくした。もとから無表情な人なのだが、考え込むときには人形のような顔になる。
 ビスケットをつまむ手をとめ、ラジオをいじってみた。電源を入れて音量を調節した。周波数のダイヤルを回し、ノイズのないところを探す。チャンネル表を参考にしばらくやってみた。
 合わない。表の中には聴けるものがなさそうだった。無駄なものを手に入れてしまっただろうか。
 落胆しつつ、ダイヤルをでたらめに回す。
――ちら――の時間にな――
 一瞬そんな声がした。聴けそうだ。ダイヤルを細かく合わせた。
――ラジオ・インフェルノ、聴いてるかいみんな? 今日もこの俺、DJイエロウ、クソッタレに最高な音楽をお届けするぜ。この国が沈みかけて以来、苦労してあっちこっちから掘り返してきた自慢のディスクたちだ。耳掃除はしたかな? よーくかっぽじって、さあ本日一曲目は――
「ソラ」イズキさんがいった。「とめろ」
 僕は電源を切った。
「チャラチャラした番組だな」
「おもしろそうでしたけど」
「私は苦手だ」
 ラジオをわきに置き、ギミタラ茶をすすった。あの放送はひとりで聴こう。
 窓の外を見てイズキさんがいった。
「流しているのは、たぶん北部の連中だ。インフェルノというのに聞き覚えがある。連中の海賊放送局だろう」
 僕らがいるのは東九龍の南部だ。そこで生活は成り立っているが、北部は北部で自律して動いている。
 南部と北部は鉄条網で区切られている。自由に行き来する者は、僕の知る限りではいない。そもそも北部は、誰もが行くなといっている場所だ。いわく、腐敗している、危険である、一度行けば帰ってこられない。それは南部の人間たちの共通認識だ。
「忘れろ、といいたいが……」イズキさんがこちらを向いた。「ハルカに会いたいか?」
 少し迷って、答えた。
「会いたいです」
 それを聞くと、深く息を吐いて、背もたれによりかかった。人形の顔でまた考え事をしている。
 やがて口を開いた。
「ハルカは北部にいる。そこで何かの集団をまとめているそうだ」
「何の集団ですか」
「ろくでもないことだろうさ。詳しくは知らないがね」
 そういって、耳にタコだろうが、と続けた。
「北部には行くな。あれは南部の人間が行くところじゃないんだ。何か悪い気配に満ちている。私はもう行きたくない」
「イズキさんは、北部へは」
「一度だけ行った。忌まわしい旅だったさ、話したくないくらいに」
「姉さんを探しに行ったんですか?」
「そうだね、それもあるんだが、あの子がここから持ち出したものを取り返したかった」
 イズキさんは椅子から立ち、隣の私室へ行った。何かを漁る音がする。紙の軽さと重さの音。本の音だ。
 戻ってくると、一冊の厚い本を僕に見せた。表紙には聖書とある。
「これについては少し話したね」
 僕は頷く。宗教の聖典だ。内容は、要点だけだが教わった。
「これと対になるもののことは、私は話していない」
 対――?
「邪書というものだ。この本、聖書は神と人の道を説いている。神と共に歩くための教えだ。一方邪書は、悪魔と人の道を教える」
 その邪書を読んで、何がどうなるのだろう。不思議がっているのを見透かされたか、イズキさんは続けた。
「神は全能だといわれる。だが悪魔もそれに近いほどの力を持っている。その力ある悪魔と共にあれば、魂を売れば、欲望を叶えることはすべてたやすい」
 聖書の表紙を指でなぞりながら、うつむき加減で話した。
「悪魔との道の教え、邪書を、ハルカは盗んだ」
 数年前、イズキさんが血まなこになって探したことの意味がわかった。おそらく、ハルカを探すこと以上に邪書を探すことのほうが重要だったのだろう。
 話を鵜呑みにすれば、邪書があればなんでもできてしまう。すべてが可能であるというとき、人はどんなことを思いつき、実行するだろうか。
 もちろん人によるだろう。だがその人間が悪意を持っていたら?
「さっきもいったが、ハルカが何をしているかは詳しく知らない。だが北部を探ってみたら、あの子が邪書を持ち、使っているだろうことは推測できたんだ」
 僕の胸がうずいた。不安か、好奇心か、とにかく心が動くのを感じた。ハルカと邪書。
「話し疲れた。ギミタラ茶をもう一杯くれ」
 僕はイズキさんの湯飲みにそれを注いだ。イズキさんは、うまいな、といった。
 その日はもう授業を終わりにして、自習の時間として夕方まで過ごした。僕は好きな本を読み、イズキさんは図書館の中をぐるぐる歩き回っていた。歩き回るのは日課のようなもので、目的はないらしいのだが、背表紙を眺めたり、手にとって愛でることを習慣のようにやっている。落ち着き、満ち足りるのだそうだ。
 夕暮れの赤みのかかった光が天窓から差し、そろそろ帰ろうかと思ったが、イズキさんが夕食を作ってくれるというので食べていくことにした。イズキさんは西洋の料理が上手だ。
 台所兼食堂として使っている部屋で、僕らはサラダとトマトソースのパスタを食べた。食後、お酒を飲んで少し酔ったようなイズキさんが邪書について話した。
「聖書には何人もの執筆者がいる。古代の聖賢たちの手によるもので、研究すれば本当に様々なことが理解できるだろう。邪書はというと、これを書いたのは魔人たちだ。悪魔崇拝者を筆頭に、魔術師もいれば心理学者や政治学者、哲学者も軍事学者なんかも加わっている。その力を引き出すならば大きな利益を得られる。読んで理解すれば、自在だ」
 ワインというのか、赤色のお酒を飲んでいる。僕のほうはレモン水を飲んでいる。
「ハルカは賢かった。邪書を十分に使いこなすだろう。でも、ソラには読ませたくないな」
「どうしてですか」
「理解してしまうだろうからさ」
 グラスを干し、口を親指でぬぐうと、帰ることを促された。もう夜だからというが、僕には質問があった。
「イズキさんは邪書を読んだんですか?」
 いや、という。
「少しめくっただけだ。情けないことだが、とても怖かった。この図書館にある六万冊の本を、その知の集合を、一気に無意味なものにしてしまいそうだった。邪書にはそれほどのことが書かれている」
 おもしろそうに思えた。どうやらとてつもないもののようだ。邪書の力で何かをしたいとは思わないが、単純に、読んでみたい。
 イズキさんがワインを注いだ。僕は訊いた。
「本当に姉さんが盗んだんですか?」
 ああ、そうだ、という返事だった。
「うかつだった。読みたいというから読ませたんだ。一週間ほど熱心に読んでいたが、突然いなくなった。邪書と一緒にね」
「僕は邪書に――」いいよどんだが、本心をいった。「興味があります」
「話すべきじゃなかったかな」僕の目を見ていった。「ソラは探しに行きそうだ」
「探したいですね。北部で、邪書と姉さんを」
 そういうと、うん、と頷いてみせた。
「それでも、北部へ行くのはやめなさい」厳しい口調でいった。「しかし、止めても無駄かな」
「行きたいですけど、手がかりや手段なんかはわからないです。行けないかもしれない」
「行ったら行ったで、私は心配してソラのことが頭から離れないだろうな――これを四文字の熟語で何という?」
「強迫観念」
「簡単すぎたな。さあ、もう遅くなった。そろそろ帰りなさい」
 そういわれ、返事をし、食堂の別の椅子に置いていたリュックを背負った。イズキさんは玄関の外まで送ってくれた。図書館の外には、真っ黒な空と、ぽつぽつと窓が光っている東九龍の町並みがあった。
 星が見えた。月が見えた。雲がないようだった。
「おやすみ、ソラ。君の人生は君のものだが、できれば心配させないでくれ」
「ごめんなさい、約束はできません」
 イズキさんは悲しげに笑った。
「どこか、ハルカに似てきたね」

 帰り道を歩いていく。夜は足元が暗く――街灯が少なすぎる――何を踏んでしまうかわからない。暗さに目が慣れるまでゆっくりと歩いた。
 三角屋根の図書館から遠ざかり、町なかへ入っていった。ショートした電線のところまでくると、茶色いテープで補強され、もうすっかり直されていた。
 すすけた壁の黒さが夜に溶けていた。

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