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『東九龍絶景』 11

11 DJイエロウのディスコ・インフェルノ

 ベッドから立つとふらつき、少しの間、視界が真っ白になった。そのホワイトアウトから醒めると元の処置室の風景があり、カザミが顔を覗き込んでいた。だいじょうぶか、と訊いてきた。
 僕がかいている汗は暑さによるものではなさそうだ。緊張したときの冷や汗に似ている。人を殺そうとしたことの反動なのだろうか。体はひどく震え、こわばっていた。
「医者先生を呼ぶか」
 そういうカザミに首を振って断り、頬に流れた汗を指で拭った。リュックにラジオをしまいこんで処置室から出た。
 遅れてカザミもついてくる。待合室をまっすぐに歩いて入口のドアを開けた。
 ビルの踊り場の窓から風が入った。外気が涼しい。少しだけ気を持ち直した。
 後ろでカザミがドアを閉めた。
「そんで、イエロウのところに行くんだな。ディスコだったっけか」
「十四画の……」
 え? と聞き返された。声が出にくい。
「十四画の宝燈ビルだったよね」ようやくそれだけいった。
「よし、探すぞ」
 カザミは力強くそういった。励ますような、発破をかけるような声だった。僕は頷いて、階段を降りていった。
 一階まで行き、迷路のような通路を、とりあえず大きな通りを目指して歩く。目指すといってもあてずっぽうなのだが、行きたい場所がどこにあるのかは例によって人に訊いてみようと思ったのだ。
 暗い蛍光灯の下、ゴミと汚れと落書きの通路を進み、ドアがあれば開け、迷いながら外への出口を探す。
 外からの風が吹く通路に出た。目線の先に割れて欠けている透明のドアがあり、その外にはけばけばしい光が灯っていた。騒がしい声と音が聞こえてくる。
 出口だ。
 僕たちは急いで向かった。あるいは急いでいたのは僕だけかもしれないが、カザミもついてきてくれた。
 欠けたドアを開けると喧噪が耳に刺さった。人々の群れがあり、様々な電球やネオンのある店が並んでいた。酒を飲んで騒いでいたり、食事をとっていたり、そんな人々を見ていると南部の屋台街を思い出した。長く離れているわけでもないのに、妙に屋台街が懐かしい。帰りたいと思う一方、目的を達していないことも考える。
「すげえ騒ぎだなぁ」カザミがいった。「なんだこれ。毎晩こうなのか」
「何か食べる?」
「夜食ってやつだな。俺は食いたいけど、ソラは食えるのか?」
「いまは食べられそうにない」
「じゃあ我慢する。俺だけ食べるのも悪いからな」
 ごった返す通りのあちこちを見る。貧しげな身なりの者も多いが、きれいに着飾った連中もいる。肌の露出の多い女たちや、清潔であろう服を着た男たち。
 ディスコは遊び場なのだろうから、そこへ行くような人なら派手な格好の若者だろう。そう見当をつけて、幾人かに声をかけ、宝燈ビルについて訊いた。無視されたり、的外れな答えだったり、そういうことが何度も続いたが、丈の短いスカートの二人連れの女に訊いたときにようやく活路を見た。
「ディスコなら一緒に行く? あたしたちはこれから遊ぶんだけど」
「連れてってくれんの?」とカザミ。
「どうせ行くところだもん」
 そういう黒髪の女に、隣の金髪の女が反対した。
「こいつらガキじゃん、ダメだって。あんなのまだ早いわよ」
「年は関係ないよ。入場料だけ払えば入れるじゃない」
 そうかもだけどさー、と金髪が不服そうにいう。黒髪のほうは歩き出し、僕らに手招きした。
「おいで、宝燈ビルはあっち」
 そう教えられ、女たちが行くほうへついていった。群衆の中、肩や足をぶつけつつ歩く。女たちは歩き慣れているのか、人々の隙間を軽やかにすり抜けていった。
 女たちを見失いそうになりながら歩く。カザミがときどき何かいっていたが、ほとんど聞こえなかった。気まぐれのように一瞬だけ喧噪が落ち着いたとき、もうすぐだな、とだけ聞こえた。
 上を仰ぐと夜空と星が見えた。ここには天井がない。雨は止んでいて、雲も流れ去っていた。こういうきれいな夜空は静かなところで見てみたい。ここはうるさすぎるのだ。
 女たちがずいぶん先へ行ってしまい、慌てて足を速めたが、人混みの中では見失わないように追うのがやっとだった。
 ある程度進むと人は減り、通りの連中がみなきれいな身なりで歩いていることに気づいた。さっきこの通りに出たあたりではボロをまとう者も多かったのだが、そういうのはここらにはいない。男たちは爽やかに見えるシャツを着て、女たちのブラウスやワンピースも整っている。いま歩いているところは下品な騒がしさはなく、落ち着いた雰囲気だ。
 先のほうでふたりの女たちが立ち止まってこっちを見ている。早足で追いつくと黒髪がいった。
「ディスコ・インフェルノはここ」
 そういって通りの横を見た。何階建てなのだろうか、そこには周囲から飛び抜けて高いビルがあった。外壁に、宝燈ビル、と表示したパネルがあった。その横の赤いネオンはこんな字を光らせていた。

 永遠と無限の戯れ、ディスコ・インフェルノ
 踊れ 君の命のリズムに合わせ
 手を上げ 足を踏み鳴らし
 最後の夜が明ける前に叫べ

 黒髪がいう。
「ここの九階がディスコ。エレベーターで上に行って、そこで入場料を払って入るの」
 そう丁寧に教えてくれた。金髪は相変わらず不服そうだ。早く行こ、と黒髪の腕を引っぱる。
 お礼をいうと黒髪は優しげに笑って、金髪とふたりでビルの中へ消えていった。
 僕とカザミは宝燈ビルの入口に佇んだ。ビルを見上げる。内側からの光か、九階の大きな窓が極彩色の点滅に彩られている。
「えーと」とカザミ。「じゃあ、行くか」
「行こう」
「そんな真剣な顔するなよ」
「真剣かな」
「緊張してるんじゃないか?」
「姉さんがいると思うと、ちょっと」
「ここにいてもしょうがない。さっさと行っちまおう」
 カザミはそういってビルの中へ入っていった。僕は追う。
 エントランスは白っぽい内装で、飲みものを手にした男女がたむろしていた。ガラの悪いようなのも少しいるが、概ね品のよさそうな連中だった。喋っていてもやかましくはない。
 そこを突っ切り、奥のエレベーターの前に立つ。二基あるうちのひとつがちょうど開いた。中から出てきた三人の酔っ払いたちと入れ替わりに入る。酒のきつい残り香があった。九階のボタンを押す。
 ドアが閉まるととても静かだった。自分の鼓動が聞こえそうなほどだ。カザミを見る。落ち着き払っているのが頼もしい。僕はそわそわしている。
 九階でドアが開く。かすかに重低音が響いていた。暗めの内装にライトがいくつも輝いている。ここはディスコそのものではなさそうだが、テーブルがたくさんあり、その上にはビンや灰皿が置かれていた。突っ切って行く。やはりたむろしている連中がいるのだが、あまり僕たちに注意を払っていないのが気楽だった。
 音が漏れ出している大きなドアがあった。その脇に黒服の男がいた。中へ入るかどうかを訊かれた。入る、と答えると入場料を迫られ、それを払うとプラスチックのチップを一枚ずつ僕たちにくれた。中でドリンクと引き替えにできるそうだ。
 黒服が分厚いドアを開けた。
 もの凄い音量で音楽が鳴っていた。それは鼓膜を震わせ、肌をチクチクと刺激する。重低音は腹に響き、目にはいくつもの色のライトが襲った。明滅する光の中、人々はフロアの中央で踊っていた。コシャリがやって見せたのと同じような身振りだ。音楽と光と踊りに溢れた、すべての不安がないような場所だった。
 フロアの隅にソファがいくつかあって、そこでは座り込んで酒を飲んでいる人々がいた。音楽にかき消されないように、大口を開けて話し込んでいる。
 カザミが何かいった。僕は耳を寄せて聞き返す。
「イエロウたちを探すぞ」
「ここの関係者に訊こう」
「え? 何?」
「あっちで訊こう」と僕は大声でいい直し、ソファの反対側にあるカウンターを指差した。店員というのかなんというのか、酒を出している男女がいるのだ。
 僕たちはカウンターへ行き、ついでだからとチップを渡して飲みものももらった。僕は冷たい花入りギミタラ茶、カザミはそのお茶で割った焼酎を頼んだ。
 一口飲んだカザミが、こりゃいけるな、といって笑った。カウンターを振り向いて男に声をかけた。
「うまいよこれ、お兄さん」
 男は酒瓶をさばきながら、口元だけで笑った。
「訊きたいんだけど」とカザミは続けた。「イエロウはどこにいんの?」
 カザミをじっと見すえた。それからふっと視線を外し、フロアの一番奥を指した。
 ブース、というのだろうか、透明なガラスのようなもので四角に区切られたスペースがあった。カザミが礼として手を上げて、そちらへ向かっていく。僕も追いかける。光の明滅と踊る人々の中、感覚が妙な具合になっていて、現実味がない。人々は光を浴び、次の瞬間には影になった。それを繰り返す。
 どれほど進んだかもわからない。遠かった気がするし、近かった気もする。
 ブースの中には人がふたりいて、テーブルのマイクを挟んで何かを話していた。こちらから顔が見える男がイエロウか。きついウェーブのかかった長髪に青の色眼鏡、赤と白の柄のシャツ。
 そしてこちらに背を向けているのがハルカだろう。イエロウよりももっと長い髪が背中に流れ、袖のない服を着て、さらしている白い肩はとても華奢なものだった。
 記憶を辿る。いつも一緒だったハルカの姿を思い出し、後ろ姿に重ね合わせる。
 そういえば、と思う。あれから、つまりハルカが南部からいなくなって何年経っているんだろう? はっきりしない。僕たちは何年離れていた?
 ぐずぐずしている僕に苛立ったか、カザミは透明なブースに近づき、ドアノブがついているあたりをノックした。イエロウがカザミを見る。灰色のマイクに何か喋る。ハルカも振り向いた。僕はその顔を見た。
 そう、ハルカはこういう顔をしていた、と思った。大人びたが、あの頃とたいして変わってはいない。いつもそばで顔を合わせていた、あのハルカだ。
 僕はブースに近づき、カザミの隣に立った。
 ハルカと目が合う。
 驚いたような、安心したような、労うような、つまりはまったく読めない表情で僕を見ていた。イエロウに向かって何かいった。イエロウは大笑いして手を叩いた。このブースは防音室なのだろうか、中の声は何も聞こえない。フロアの音楽がうるさいこともあるだろう。
 ニヤニヤ笑いながらイエロウが椅子から立ち、こちらへ来てドアを開けた。
「入っておいで、少年たち。ちょっとお話をしようじゃないか」
 音楽に負けない大声でそう呼びかけた。カザミがブースに入っていき、次に僕も入った。
 イエロウがドアを閉める。ブースの中はかすかにフロアの音楽が聞こえる程度で、とても静かだった。
 右手の壁に棚がある。床から天井まで、一面にCDとレコードの背表紙で埋まっていた。テーブルのそばにレバーやボタンやダイヤルのついた複雑そうな機械があり、そこから伸びたコードが二本、テーブル上のマイクに繋がっていた。
 僕とカザミはハルカのそばに立っている。イエロウが椅子に座って、マイクに顔を向けた。色眼鏡を直す。
「さあここでサプライズゲストだ、俺たちのシェエラザード、ハルカのだな、実の弟くんがスタジオに来てくれた。何年ぶりかっていうことらしいが、感動の再会かなこれは、ハルカ?」
「そりゃ感動ものよ。今夜はお話は抜きね」
「これは残念、みんなまた明日聴いてくれ。ラジオ・インフェルノはきっと君を裏切らない。さて空気を読まずに現れたゲストの君、ちょっと話してみないか? 名前は?」
「……」
「話したくない?」
「ソラといいます」
「ソラ! いい名前だ、ハルカと合わせて遙かな空というところか、違う?」
 僕は黙っていた。
「おやおや、緊張してるのかな。気楽にやっていいよ。五千人くらい聴いてるけどね、このラジオ」
「この子は照れ屋なの。そういうところ変わってないわ」とハルカがいって僕を見た。やはり表情が読めない。
「それじゃ、そっちの野人みたいな気迫の君は?」
「俺はカザミ。あんたに会えて嬉しいよ、ラジオのファンでさ」
「おお! ありがとう。君たちはふたりで来たのか。ようこそディスコ・インフェルノへ、そしてラジオ・インフェルノへ。今夜は楽しんでいってくれ!」
 さっ、ここに座ってくれ、とイエロウはいい、マイクが置かれたテーブルそばのベンチを手で示した。まずカザミが座り、その次に僕が座った。カザミはイエロウに近い位置で、僕はハルカのちょうど隣だ。
「狭いブースだけどな、勘弁してくれ。何しろラジオの運営っていうのも大変なんだ。このディスクの管理から放送スケジュールから……おっと、愚痴をいってる場合じゃないな」
 早口で喋るイエロウは、腰を落ち着けて手を組み、インタビューでもしようか、といった。
「ソラ君、カザミ君、君たちはどこから来たのかな」
 どう答えればいいか、少し考えていたところへイエロウはいった。
「いえないってことは南部かな? いや、怖がらなくていいよ。どうやって北部へ、そしてこのディスコまで来た?」
 カザミが答えた。
「あちこちで親切にされて、道を教わって、そのおかげで来れたんだ。みんな優しいもんなんだな」
「ああ、それは美しい話だ。人間は綺麗だと思えちゃうね。どんな旅だった?」
「どんな、ねぇ」カザミは腕を組んで黙った。代わりに僕が答える。
「人を探して話を聞いたり、お墓参りをしたり、そういう寄り道をしながらです」
「麻薬をやらされたり、銃を向けられたりもな」カザミがつけ加えた。そりゃあタフな旅だなぁ、といってイエロウは楽しそうに笑い声を立てた。
「ソラも麻薬をやったの?」とハルカ。やってないよ、と答えると、健康的でいいね、といってほほえんだ。
「うまいもんを食えたのが一番よかったかな。日本料理を食ったんだ」
「日本料理が珍しい?」
「ああ、初めて食ったよ」
「そうか、たくさん食べて大きくなってくれ」
 イエロウとカザミが話しているのを聞きながら、僕は壁にあるディスクを見ていた。床から天井までぎっしりと詰め込まれたこれらは何千枚あるのだろうか。
「その包帯は? ケガをしたのかな」
「勲章だよ。デビルスティックで火傷しちまって」
「デビルスティック?」
「大道芸。得意なんだ」
 いつか見てみたいな、とイエロウがいい、そんなのいつでも見せるよ、とカザミは答えた。
 イエロウが僕に顔を向けた。
「さて、ソラ君とも話そうかな。ハルカに会うのはひさびさだそうだけど、それは何年ぶり?」
「四年ぶりくらいです」
「五年ぶりよ」ハルカが訂正した。
「そんなに離れていて寂しかったんじゃないか?」
 ええ、まあ、と口ごもる。気恥ずかしい話だ。一方ハルカは、私は寂しかったわよ、と気兼ねなくいった。
「ソラのことは心配していなかったけどね、面倒を見てくれる人がいたから。でもよく思い出してた。忘れてなかったよ」
 ハルカは僕を見てそういった。少し表情が読める。穏やかな声色と目つき。離ればなれか、とイエロウがいった。
「当人たちのプライベートな話になりそうだから、あまり踏み込まないでおこう。ただいえるのは、いま素晴らしい再会があったということだ。会いたい人に会えることはどんなエグいヤクより素敵だと思うぜ」
 そういってひとりで笑った。
 カザミが口を開いた。
「ここに来るまでにラジオをよく聴いてたんだ。あんたのラジオ」
 そりゃ嬉しいね、とイエロウ。カザミは首をひねってディスクの壁を見上げた。
「どれかオススメっていうのはない? 放送でいろいろ聴かせてもらったけど」
「ふーむ、ジャンルは何がいい」
「あれだな、ロック」
 よし、じゃあ何かかけてあげよう、といってイエロウは壁の前に立った。
「ビンビンになっちまうようなのを選んでやるよ」
 しばらくあちこちと見ていたが、やがて一枚のレコードを抜き取り、紙製のカバーから取り出してそばの機械にセットした。そしてマイクに口を近づけて喋る。
「インタビューはいったんここらで終えてだな、音楽の時間としようか。ゲストのカザミ君のリクエストでロックをかけるぜ、みんなも聴いてみてくれ」
 それからマイクの台座にあるボタンを押して、横にある機械で何かの操作をした。ブースに音楽が流れる。シンプルだが激しい音色のロック。
「これで放送は音楽に切り替わってだな、ブースの声は拾われない」
 イエロウはぼそっといった。放送中のハイテンションなふうではなく、何か考えているような物憂げな声だった。
 色眼鏡をずりあげる。
「南部から北部へ来たってことは」僕とカザミを交互に見た。「殺されてもいいってことだな?」
「それが、ほとんど危険な目には遭わないんです。あなたも怖い人には見えない」
「そりゃそうだな。いまの質問は冗談みたいなもんだ」
「どういうこと?」カザミが訊いた。
「北部は別に危なくない。南部でいわれるような場所じゃない。その辺はハルカに訊いてみろ」
 僕はハルカを見た。なんでもないふうにハルカは座っている。
「どういう話からしようかな……。上手な嘘のつきかたを知ってる?」
 誰も何もいわない。
「嘘の中に本当のことを少しだけ混ぜるの。それだけで勝手に嘘は広がる。『北部は危ない』という嘘を私は南部に流したの」
「え? じゃあ本当のことって何?」とカザミ。
「たまに境目での狙撃をするのと、人骨を使った嫌がらせ。それくらいで十分信じ込ませられるのよ」
「でも、刺された人がいたけど」僕はミルイザさんを思い出した。
「よほどのことがあったんじゃない?」そういって髪をかき上げた。「触れちゃいけないものに近づいたとかね」
「それでだな」イエロウが口を挟んだ。「北部と南部を分けることは、そもそも俺が考えたんだ。途中まではひとりでもできたが、ハルカが来てからはより完全に分けることができた」
「何のために分けたんですか」
「俺は北部だけが好きで、南部はどうだっていいんだ。北部のこの街こそが東九龍だ。あとはハルカの意向が大きいな」イエロウはハルカを見た。
 ハルカがいう。
「南部を実験の場所にしたかったの。カネ、職、食、性、酒、賭博、貧困、犯罪、その文化の様子と人間のふるまいの観察。純粋培養するために、嘘をついて北部とは関わらないようにさせた。それでも北部に来たやつは、嫌がらせをして追い返した」
「わからない」僕はいった。
「何がわからないの?」
「実験の動機が」
「そんなの暇つぶしよ」とハルカはあっさりいった。「邪書も活用してみたかったしね。使えるよ、あれ」
 ブースの中に流れているロックが、ふと黙った僕たちの間に入り込んだ。カザミはもう話を聞いていないのか、うつむき、腕を組んでつまさきでリズムを取っている。
「俺も何か話したいな」とイエロウ。「東九龍の歴史なんかどうだ」
「聞きたいです」
「うん、といっても簡単なんだけどな。昔、大地震があったのは知ってるだろ? マグニチュード8オーバーの、首都直下型地震だ」
 僕は頷く。
「東京は壊れちまったんだ。ここいらに残ってる建物もその頃からあるもので、けっこうボロボロだろ? 耐震性が弱い建物ばかりなんだ。それであぶねーから、国の判断で放棄された。そこへ違法にみんなが住み着いたんだ。立ち入り禁止区域だけど雨風はしのげるもんな。まず北部に、人が溢れてからは南部にも住みだした」
 香港にあった九龍城を知っているか、と訊いた。
「とっくに取り壊されてるんだが、何万人も住んでた、化け物みたいにでっかいスラムだ。東京の九龍城、略して東九龍、この街が北部だけだった頃に、誰かがそう呼び始めた」
 ざっといえばそういうところだな、そういって両手を組み、後頭部へ当てて背を伸ばした。
「住むにはいいところよ。あの大穴のあたりはダメだけど」
「大穴って、インディアンみたいな人たちがいるところ?」僕はハルカに訊いた。
「いるね、インディアン。あそこは地震で水浸しになってね、地面が液状化して、そうして沈んだの。下手に埋め立てたところだったから地盤が緩いのよ」
「地震の可能性なんかも無視してただろうしな」とイエロウ。「とにかく、そんな廃墟の街が東九龍だ」
 ボロくても気楽な街さ、とつけ加えてあくびをした。大穴でのことについてハルカに話した。
「頼まれて石を埋めたんだ」
 ああ、とハルカ。
「キミカちゃんに頼まれた?」
 僕は頷いた。
「いろいろ協力してくれたのよ。あの子の専門は風水なんだけどね、北部と南部の分断にも、邪書からの情報と引き替えに手伝ってくれた」
 どういうふうに、と訊くと、ハルカは考えるそぶりを見せた。
「石の話をしようかな」僕を見ていう。「昔、パワーストーンっていうのが流行ったことがあってね。スピリチュアリズムの範疇なんだけど、カジュアルなおまじないとしてブームになった」
 そこからの話はこうだった。
 パワーストーンの呪力は、それがちゃんとしたものであれば、使い方次第で何にでも効く。開運や厄除けがメジャーなところだそうだ。
「そのパワーストーンを呪物として、石自身の力を限界まで高めて使う。それがキミカちゃんの、風水以外にやってるまじない。そうやって使うと石は死んじゃうんだけど」
 だから墓場があったのか、と納得した。あの塔の隣、コシャリと行った土くれの斜面。
 ハルカの話は続いた。そういう石のまじないについての情報を邪書から拾い、それを教える対価として協力を得たという。
「南部の人たちを嘘で阻むだけじゃなく、閉じ込めるように結界を張ってもらった。それも純粋培養のため。風水も石も便利ね」
 大きいまじないだったから脚を壊しちゃったけど、と、何気ないような声でつけくわえた。
 またみんな黙った。音楽は鳴り続けていて、カザミはそれに聴き入っている様子だ。
 ハルカがいった。
「さて、せっかくここまで来たんだから、ちょっと休んでいけばいいわ。ギミタラ茶を淹れてあげる」
「上へ行くのか? 刺激が強いんじゃないかな」イエロウがいった。なぜか額にうっすらと汗をかいている。落ち着かなそうにも見えた。
「十三歳の男の子ってけっこう大人なものよ。ね」
 そういってカザミを見た。音楽に夢中だったところ、え? とハルカに聞き返した。
「よほど音楽が好きなのね」
「ああ、なんだか楽しいんだ」
「DJ冥利に尽きるなぁ」イエロウが詠嘆した。のんびりした口調とは裏腹に、焦るように手を組みかえていた。
 それからハルカに促されて僕とカザミは席を立った。ブースから出ようとするとき、イエロウがいった。
「いつでもラジオをつけて、ダイヤルを合わせてくれ。俺はそこにいる。電波の先で、いつだって音楽は流れているからな。水を飲むように音楽を聴け。なんて、押しつけるわけじゃないけどな」
 手をふらりと振って、それからテーブルの下から箱を取り出した。そのあとは僕らを見もせず、箱の中をいじっていて、挨拶しても無視された。
 ブースを出たあとハルカがいった。
「たぶんクスリが切れたの」
「ジャンキーなのか」とカザミ。
「うん、『音楽とクスリだけが俺を救う』っていってた」
 ディスコのフロアの騒がしさ、眩しさの中に戻り、踊る人々をかき分けて出口まで歩いていった。ハルカの背中を追いかけていく形だ。光の明滅で、その姿は非現実のようなものに見えた。そこにいるのにふれられないような何か。
 だがディスコのドアから廊下へ出ると、ちゃんと現実のものとしてハルカが見えた。白い光の蛍光灯のもと、簡単な化粧と身なりのハルカは、記憶にある姿より綺麗だった。
「さて」といって僕とカザミを見る。「十階に行こうか」
「姉さんの部屋?」
「そうね、部屋と遊び場かな」
 僕にそう答え、エレベーターに向かって歩き出した。それに僕らも続く。廊下にいた人々はみなハルカに声をかけ、ハルカはそれに軽く応じていた。

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