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『東九龍絶景』 7

7  フライのサグラダ・ファミリア

 井戸の底に下りると、壁にランタンがいくつか灯っていて、そのうちのひとつを僕たちはとった。辺りを照らしてみる。足下は黒っぽい土で、木と石でできた頑丈そうな壁があり、通路がひとつあった。そこを行けということだろう。
「寒くない?」
「うん、寒い」僕は答えた。地下の空気はひんやりとして、湿っている。
「早く行こうぜ」
 そういってランタンの光が届かないほど先に進む。僕は追いかけた。
 カザミが何かにつまづいて転びかけた。なんだよ、と下を見る。ランタンで照らすと、斜めに割れた茶色の頭蓋骨があった。
「……人の骨か?」
「たぶん。大きいし」
「ああ、気味が悪い。ついてない感じがする」
 苛立つカザミをなだめて、先を急ぐ。ただ、ランタンの光はすぐそばまでしか照らせない。急いでいるが、あまり早くは進めない。
 地下道の先は真っ暗だ。どこまで行けばいいかはわからない。延々と続いているように思える。
「もう骨はないだろうな」
「ないほうがいいよね」と僕は妙なことをいった。
「当たり前だろ」ごくまともな返事をされた。
 少し気分が変だった。ようやく北部へ行けるというときに、恐怖や困惑が湧いてきた。僕は本当に北部へ行きたかったのだろうか、とまで考えて、打ち消した。
 ハルカと邪書だ、と幾度か念じた。ハルカに会い、邪書を手に入れる。そのための道だったはずだ。
 僕たちはしばらく無言で歩いた。何分経ったのかわからない。この地下道は時間の感覚がおかしくなる。
 ずっと先に光の点が見えた。足下を照らしながらゆっくりと歩いていく。点はだんだんと大きくなってきた。
 ようやくその点のそばまで来た。井戸を下りて底へ下りたとき同様、いくつかのランタンが壁にかかっていたのだった。そしてそこが終着で、縄梯子が上への穴から伸びていた。これを上れば北部だ。
 ランタンを壁にかけ、まずカザミが上っていった。縄梯子の揺れがなくなってから僕も上った。体力的にとてもしんどいのだが、なんとか手と足を動かした。
 ようやく上り終えた。そこは何かの建物の中だった。周りを見る。大きな十字架が、祭壇とおぼしきものの背後にかけられていた。多くの机があり、古びた黒いオルガンがひとつ置かれていた。
「なんだここは」カザミがいった。
「これ、教会だね。十字架がある」
「なんだかわからねえな」
「僕たちには信心がないから」
 教会の中を歩いてみた。祭壇も机も、窓のステンドグラスもきれいに保たれている。ただ、天井の蛍光灯の一部が切れかかっていて、それは点滅していた。
 足音と衣ずれの音がした。建物の奥、通路のあるところから、誰かがこちらへ近づいてくるようだ。
「ソラ、ナイフを抜けるようにしておけ。銃も」カザミが小声でいった。「味方とは限らない」
「フジワラさんの仲間じゃないかな」
「最悪の場合を考えろ」
 そういうカザミは、緊張なのか怯えなのか、呼吸が浅くなっていた。
 音を立てていた誰かは、ふわりと姿を現した。法衣というのか、黒い服を来ている男だ。細身で、眼鏡をかけている。落ち着き払って僕らを見た。
「ようこそ」男はそういった。「ようこそ北部へ。大変だったろうに」
 手を胸の前で組み合わせている。穏やかな声をしていた。カザミの呼吸はまだ浅い。
「なんだ、何者だおっさん」
「そんなに気を張らなくていい。私はフライ、神父をしている。そして君たちの味方だ」
「本当か?」
「そうとも。君たちをここへ送ったのは?」
「フジワラさんと、キミカさんです」僕が答えた。
「うん。彼らは私の仲間だ。彼らが送った君たちを遇しよう」
 おなかはへっていないかな、と訊かれた。僕たちは昼食をとっていない。とうに正午を回っているはずだった。
「腹はスカスカだよ」とカザミ。
「こちらへ来なさい。食事を用意する」
 そういってフライさんは踵を返し、道を戻っていった。廊下を数歩進み、僕たちを振り返って手招きした。僕は警戒してはいなかったが、カザミは疑り深いようなそぶりだった。
 フライさんについていくと、粗末な作りの、木製の壁の廊下があり、床は軋み、ここが質素な建物なのがわかった。薄暗い裸電球。
 廊下の先、フライさんは青色のドアを開けた。白いクロスがかけられた、清潔そうなテーブルがあった。椅子は十脚ほどある。食堂だ。
「ミルクを飲むかな? 南部にはないだろう」
「牛乳っていうものですか?」
「そうだ。こちらでは手に入るんだ、とても栄養のある飲み物だよ」
 僕たちを座らせてから、育ち盛りなら飲まなくては、といって食器棚へ向かう。グラスを取り出す。それをテーブルに置き、奥の冷蔵庫を開けて、瓶に入った白い飲み物をとった。それをグラスに注ぐ。
 さあ、とでもいいそうに手のひらで勧める仕草をした。恐る恐る口をつける。ミルクは甘くて優しい味がした。
 カザミが僕を見ている。
「おいしいよ」
 そういうと、ようやくグラスに手を伸ばした。一口含み、驚いたみたいな顔をした。
「うまい。なんだこれ」
「だからミルクだって」
「喜んでくれて嬉しい。たくさん飲みなさい。さて、あとは食事だが、簡単なものしか置いてないんだ。それでいいかい」
 贅沢をいえる立場ではないし、安心できそうなこともわかった。僕たちは頷く。フライさんは食料が入っていると思しき棚を漁った。あれこれと棚の中のものをとって、吟味するように見ている。
 結果、テーブルには山盛りのパンと、一皿のチキンスープ、そしてピクルスが並べられた。僕たちがそれらを頬ばっているのを見て、フライさんはほほえんだ。カザミはチキンスープに驚いた。僕はピクルスに驚いた。南部では食べたことのない味だ。
 パンをかじっていると、フライさんにいわれた。
「あれから何年経ったかな。大きくなったね」
 僕は、よくわからない、という表情だったろうが、次のひとことで感電したような気分になった。
「ソラ君だろう? この教会を覚えているか。君のお母さんの葬儀をしたんだが」
「……母のですか?」
 そう、とフライさんはいう。
「列席していたのは君とハルカちゃんだけだったけれどね」
 食べる手を止めた僕を、パンを頬ばりながら、カザミが横から見ていた。
 あのときのことはよく覚えていない。確かにひとつ覚えているのは、ハルカとつないだ手の温かさだ。
 この教会で葬儀があった、といわれても思い出せないのだが、フライさんが嘘をついているわけでもないだろう。
 母はここで弔われたのだ。
「君とハルカちゃんを残していくことを、あの方は本当に悔やんでいたそうだよ」
 僕は黙っていた。母の顔が頭に浮かぶ。だが、どうして死んでしまったのだろう?
 それを訊くと、フライさんは困ったような声でいった。
「病気だったそうだ。職業病だね」
 それだけいって、チキンスープのおかわりをすすめた。僕もカザミももらうことにした。具が少ないけれどおいしいスープ。
「君たちはどうして北部に来た?」
 僕はいいよどんだが、スプーンを置いて答えた。
「姉さんに会うためと、姉さんが盗んだものを返してもらうためです」
 フライさんは頷いた。テーブルの上で手を組み、じっと何か考えている。僕はまたスプーンをとった。
 食べ終える頃にフライさんはいった。
「ハルカちゃんに会うのもいいだろう。でもその前に、お母さんのお墓参りをしてあげてはどうかな」
「お墓があるんですか」
「ここから少し歩いたところに墓地がある。そこのひとつが、君のお母さんのお墓だ」
「……」
「しっかりものの墓守がいてね、きれいに管理されている。花を手向けるだけでも、どうかな」
 僕が黙っていると、カザミが質問した。
「俺らが、つまり南部の人間が、ここらをぶらついてもだいじょうぶか?」
「危険があると?」
「うん、北部はあぶねーってみんないってるんだ」
「それはいえるかもしれないが、南部から来たことは見た目ではわからないだろう」
 それに、とフライさんは続けた。
「ソラ君は、北部生まれだよ」
 声が出せなかった。僕は南部で生まれ育ったものだとばかり思っていた。足下が揺らぐような感覚がした。そうなの? と訊くカザミと、そうだよ、というフライさん。
「ソラ君たちの家族四人は北部に家を持っていた。お母さんがああいうことになって、つてをたどって……あの方の名前はなんといったか……南部の図書館の方が引き取った」
 イズキさんのことだ。世話をしてくれたことはわかっていたが、生まれについては自分でも知らなかった。イズキさんも教えてくれなかった。そしてわかった。ハルカは北部へ行ったんじゃなく、帰ったのだ。
「ソラの親父は何やってたんだ」カザミがいった。
「もともと家に寄りつかない方だったと聞いた。いまは体調を崩していてね、療養中だ」
 フライさんが僕を見た。
「お父さんにも会いたいかな」
「それは、考えてもいなかったんですが」
「うん。私としても、会わせるべきかどうかわからない。とても怖ろしい病気にかかってしまってね」
 病院の住所を教えるが、といった。
「そこに行くかどうかは君が判断しなさい。といっても、判断材料がないか」
「どうすればいいか……」
 ここまでの話を聞いて、頭がぐらぐらしていた。思いもよらないことばかり知ってしまった。母の葬儀のこと、僕とハルカの生まれのこと、父のことなど、頭の整理が追いつかない。
 お父さんのことは、とフライさんがいう。
「ゆっくり考えなさい。ただ、私からひとつだけいえるのは、会うならばつらい思いをするだろうということだ」
 食堂はしばらく静かになった。誰も何もいわない。白いクロスがチカチカと目に痛い。僕はスープの入っていた皿のあたりに目線を向けていたが、見ているというわけでもなく、目玉が動かないだけだった。
 そういえば、とカザミがいった。
「全然違う話なんだけど、フジワラは殺し屋だろ。こういうところにいるあんたはさ、殺し屋と仲間になってていいのか」
 ああ、とフライさんは応じた。
「罪については、私からは何もいわない。すべては教えの中にではなく、神のみこころの中にある。それが私のとる立場だ」
「殺してもいいのか」
「そうじゃなく、その是非を決めるのは人間ではないということだよ」
 よくわからねー、とカザミはいった。それでいいじゃないか、とフライさんはいった。
「私だってわからないことばかりだ」
 それから僕たち三人は食堂を出た。ここへ来たところ、地下通路の出口のある部屋へ来た。出口はいつの間にか木製の蓋でふさがれていた。
 銀色の十字架が眩しい。
 その十字架の前に立ち、私は説教が得意だが、とフライさんはいった。
「君たちには必要なさそうだ」僕とカザミを見る。「要るのはきっと、他のものだろう」
 そうかもしれない。ハルカと邪書を探しているというだけでここまで来てしまったのだ。何が要るのかははっきりしている。
 ハルカの居場所、という情報だ。
 フライさんに直接訊いた。だが、答えてはくれなかった。
「私は知らないが、他の誰かが知っているだろう。有名人だからね」
 さらに訊く。
「邪書をどう思いますか」
「神がそれをお作りになったのなら、どうこうとは思わない」
「邪書は悪魔の道だといいますけど」イズキさんからの受け売りをいった。
「悪魔も、その道も、神がお作りになったんだと私は考える。人は試されているのかもしれない」
 すべてがみこころのままだね、といって、メモを僕に渡した。父の病院の住所が書かれていた。
 フライさんが教会の入り口に立った。立派な鉄扉が重そうにそこにある。
「行っておいで。帰りにはまたここへ来るといい。地下を通ったほうがスムーズだ」
「いろいろとありがとうございました」
「メシ、うまかったよ」
 僕らの挨拶にほほえみ、それから力を入れて扉を開けた。
 フライさんの肩越しに、北部が開けて見えた。少し雲が出ていて陰っている。地面に近いところはかすみがかっていた。高い建物でいっぱいの町並みが、ずっと離れたところにあった。ここは町外れということだろう。
 入り口を出る。振り返り、フライさんにお辞儀をした。彼は十字を切って僕らを送り出した。外から見た教会は質素な建物だったが、何か荘厳なものだという雰囲気があった。これが祈りの場だ。
 さて、とカザミが腰に手を当てた。
「まずは墓に行くのか?」
 ボーッとしていて反応できなかった。おい、ともう一度声をかけられ、やっと返事ができた。
「そうだね、お墓に行っておきたい」
「花を置くんだったか、墓参りっていうのは」
「うん、手向けるっていうやつかな」
「どこに花があるんだ」
 そういわれて見回す。雑草などはそこらに生えているが、ほぼアスファルトで覆われた地面であり、手向けるべき綺麗な花がありそうでもなかった。
 花は町で買えばいいのか、売っているのか、と考えた。それもフライさんに訊いておけばよかったが、思い出したことがある。
 さっき、しっかりものの墓守がいる、といっていたのだ。その墓守に相談してみればいいんじゃないだろうか。
 墓守のことをカザミに話し、僕たちはまたそこらを見回した。墓場はどこだろう?
 カザミがいった。
「まず墓に行って、それからお前の親父に会うのか」
「それと、キミカさんに頼まれたこともしなきゃ」
「忙しいな」
 そうだね、といって道路の端に目をやった。看板がある。近づいてみると、看板には矢印がいくつか書かれていて、そのうちのひとつが墓場へ向かう方向だとあった。行き方は簡単で、ここから右へまっすぐだ。
 右を向くと、遠くに森が見えた。青々と葉が茂っている。そこには森だけが見えた。あのあたりが墓場だろうか。
 曇天が気になる。雨でも降らなければいいのだが。
 ひとつ思い出した。母の葬儀の日、ひどい雨が降っていて、僕とハルカは少しだけ泣いたのだった。
 振り返って教会を見る。粗末な佇まいのこの建物で、母は静かに――。
「おい」とカザミ。「ソラ、泣きそうだな」
 僕はぐいと目をこすり、あさっての方向を見てごまかした。
「泣けるほど覚えてないよ」
 だが、ごまかしきれてなかったようで、カザミが励ましてくれた。
「なあ、生きてるもんは死ぬんだろ。しょうがないって思うしかないぜ」
 僕たちはしばらく無言でいた。僕はこれ以上涙が出ないように必死だったし、カザミは僕にかける声が見つからなかったのかもしれない。
 教会の屋根のあたりから、母の声が聞こえた気がした。こんな声色だったかどうか、そんなことも覚えていないのだが、それでも母の声だと思えた。
 声は、謝る言葉を語っていた。
 僕は恨んでなどいない。しかし、寂しかったのだと思う。葬儀のときもそうだったし、それからの日々も、単純に寂しかったのだ。
 母の声はもうひとこと謝って、それから教会の上空へ昇るようにして消えていった。
 目線を地上に戻した。遠くの町を見る。ハルカがあそこにいるだろう。父もどこかにいるだろう。残された僕の家族に会いたい、と思った。
 その前に墓前に行こう。もう一度看板の地図を見て、墓場の位置を確認した。
 歩き出した僕に、カザミが小走りについてきた。僕に追いついて横に並んだが、黙っていた。
 行く先にある森の中から、数羽の鳥が飛び立った。小さく見えるその鳥たちは不思議な鳴き声を立てていた。まとまって森の周囲をぐるりと飛び、それから散り散りになってどこかへ去った。
 舗装が崩れてボロボロになった道を行く。でこぼこしていてつまづきそうだ。自然と下を見ながら歩く形になる。
 そういえば、とカザミがいった。
「さっきのあれ、日本料理だったのか?」
「いや、たぶん違うと思うよ」
「あとで食おうぜ。町で」
「わかった」
 うまいのかな、とカザミがつぶやき、どうかな、と僕は答えた。この東九龍は日本にあるはずなのだが、南部では日本料理など食べたことがないのだ。記憶にはないが、幼い頃、北部にいた頃は食べていたかもしれない。
 でも、本当に僕は北部で生まれたのかと考えると、まるで実感がない。北部での記憶といえば、教会での葬儀のことだけだ。家族の顔すらもいまやおぼろげだ。南部でも一緒だったハルカを除けば。
 一緒に本を読んだ、一緒に勉強をした、一緒に食事をした、そしてよく一緒に遊んだ。カードを切って並べたり、歌をうたった。ふたりで笑っていた。それが南部でのことだった。
 森に近づいてきた。木々は山のようにそびえていて、深い影が地面にできていた。影の中に小屋があり、その先には芝生が広がっていた。
 異臭がした。かいだことのない、少し怖いような悪臭。カザミを見ると鼻をつまんでいて、道の左を指差した。
 そちらを見たが、初めは何があるのかよくわからなかった。たくさんの服が置いてあるだけに見えた。しっかり見てみると、その服は人間が着ていて、人間というのは死体だった。一体ずつ並べられていて、いくつかは長く放置したのだろうか、顔や腕は奇妙に変形し、腐食していた。
 あまり見ていたくもない。カザミと共にそこを離れ、においがしないあたりまで走った。「死体公園ってあれなのかな」とカザミがいった。「とんでもねえな」
 僕は何もいわなかった。野ざらしであろう死体の顔を見てしまって、それが頭を麻痺させていた。気味が悪いどころではない。
 なぜ死体が並んでいるのかはわからないが、それも墓守に訊いてみたい。
 道の先、森のほうを見た。小屋が少し先にある。そこを訪ねてみようと歩いた。

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