ちょっと口憚れることですが

ちょっと頑張って長いものを。

最近、会社で同僚と交わした会話で何か妙に心に残っているのは今話題のワクチンについて話していたときだった、2,3週間まえだろうか。

僕は「会社に来るとそれを打とうと考えている、もしくはもう打った人ばかりで、休日に会う人は打たない人ばっかり」と言ったのだった。

誰にだって、その中に矛盾や葛藤というものを抱えているのだろうと思うが、僕の場合は長らく、平日はじっとまるで体育座りさせられている生徒たちのように膝を抱えて嵐が行き過ぎるのをとにかく待って、耐え忍ぶ、そんなものだった。

そして、休日になるや、武術だ、音楽だ、何とか先生のありがたいお話だ、だから、SNSにアップするのも専ら平日だ、とそんなふうに思っていた。

それどころか、休日に会う人たちと一緒に過ごすことができるようになることこそがこれから目指すことだと長らく思っていた。

まあ、世の中には正しいも間違いもないのだからひとつの考え方ではあるのだけれど、少なくとも言えるのは今の自分を完全ではないにしろ、まあまあそれなりに否定しているってこと。

こうなると何をやっても上手くいかないし、自分が望むようにはならない、これは事実でありました。今までずっとずっと。

そんなんで食品会社、しかも水産物を主に扱う、に勤める僕は、いつしかビーガンになって、メーカーさんの試食会があっても食べへんし、食品添加物の悪口言いまくるし、ほんまたち悪い社員やなあとつくづく思う次第でありまして。

こういう状況下でも自分を貫いている僕はある意味スゲーとも言えるけど、昨今のハラスメントはあかんという風潮において、周りもいろいろ我慢しているんだろうなと、ようやく人のことを、それも50の大台を超えてからやっと考えられるようになったんだなあと思っているのと、そんなんでも居らして頂いていることに感謝はやはりせねばならないなあと思っているのでありまして。

そうやって現状の、ありのままの自分を、まず自身自ら認めることで確かに少しずつ周りも変わり始めて来たように思えるようになってきたのであります。

そもそも、自分自身のことなんて、考えたこともなくて、でも現実が苦しくて苦しくて、いろいろ試行錯誤している僕のことを結婚してから家人に呆れられたことがあった。

大学卒業がというときは就職活動なんて面倒臭くって、将来何がしたいか考えるなんて無理、入れたらどこでもええわ、辞めたらええしなどと今の就活生にしばかれそうなことを考えていた、ほんまにすみません。

が20年ほどまえ、転職を繰り返し、30代になってから僕は本当は何がしたいのかを真剣に考え始めたような次第で、何ともお恥ずかしい話だなあと恐れ入る。

ほんまに、冷静になると僕が、好きでもない商品のことを買ってください、お願いしますなどということを一体なぜ僕はやっているのか?

そして、静かになると僕はなぜかイライライライラしていた。無性に怒ってもいる。そんな感情がそれこそとぐろのようになって僕に巻き付いているようだった。僕はそんなものを身に纏い、得意の?笑顔で包み隠して、やりたくないことを良い調子で引き受けて摩耗していたようだった。今流行のHSS型HSPの項目にはめちゃくちゃ当てはまった。

それが今年の春頃だろうか、以来やたらすっきりとした心持ちで、かと言ってその人たちを助ける団体に登録したものの、そのイベントに出席しようとは思わなかった。ただ、自分が所属できる、カテゴライズされているグループがあるということが嬉しかったのであって、別に治すべきものとか、いやでいやで苦しくて、というわけでもなかった。

そして、少しずつ少しずつ前述の武術や友達と遠隔で楽しむ音楽やこうしているようにNOTEにたどり着いて、もう1回書いてみよう、そう思えるようになったわけである。

話変わって、昨夜(2021,9,22)僕は両家の墓参りを夜の9時すぎという非常識な時間にやっていた。

それは配達すべき荷物の到着が遅れ、それを納品がてらその近くに家人の実家があり、帰りによろうと思い、さらにしばらく行くと我が実家の墓があるというわけだった。確かに今日一日ゆっくりとしたかったというのもあるが、遡ること多分2週間まえのことである。

平日水曜日の休みにスイカを取りにくるようにとのことだった。

まあ、正直素人の農作物だから三振かホームランで、化学肥料や農薬が嫌だし、それを指摘すると血相変えて怒るし、あまり関わらないようにしていた(本当はめちゃくちゃ農業したいです)が、まあ、もらうだけならと伺ったところ、ワクチンを打つ、打たないで大揉めとなり、「二度と来るな、遺産もやらん」と言われたから、会いには行かないけど墓参りだけはしておこうということで、やっぱり怖かったけど行った。ここらへんはきっちりしようと思うから。

このトピックで今いろんな人がいろんなところで揉めているのはよく知っているので、まあ別によくあることだし、新聞やテレビを大げさかも知れないけど、神様の言うことぐらいに思っている人たちだから案の定の意見で驚くことは何もなかったけど、自分と違う意見にはとにかく理由も言わず「あかんあかん」と言い続け、終いには怒鳴りつけるのだから本当に始末に終えない。

僕はこういったようにずっと何かをしようとすると、とにかくずっと否定され、却下されて来て、こじつけるようだが、そうした怒りやそれに似たようなものをずっと抱きながらこうしてやって来た。
 
とここまで書いてきて、これは排泄なのだろうか?創造なのだろうか?と疑問が湧いて来ている。

最近、最も記事がアップされるのが楽しみな清水友邦先生のフェイスブックの記事で目にしたことだった。 

(あかん、リンクが貼れません)

自我や主観と結びついた主観芸術とそれらを超えて本当の自分とつながることで得られる客観芸術がある。

冷静に書いてきたつもりだけど、やっぱりいまだ前者かなぁ。
 
でも、ここ最近の自分に起こった変化をどうしても書きたくてね。

ところで、こうした対立する事象、その代表は陰陽だけれど、これからは、新しい時代はこれら二元性を乗り越えなければならないと。それって結局、多様性を受け入れるということでもあると思うから、だからこそ、上から縛りつけて来るような人たちでもそれを受け入れてっと。

まだ僕にはそこまでは難しいかなと思うけど、そうされても自分を偽らないでいられるようにはなったかなぁと思う。

それにしても、スピリチュアルの人たちに言わせると僕たちは産まれる前、こんな人生になると知っているし、それどころか親すらも自ら選んでいるのだと言う。

少なくとも現実は自らが創り出しているというところまでは理解できたと思うのだけれど。

だから、これからが本当のスタートであり、これは本物の自己紹介だとも思う。

長くなりました。お付き合い頂いていたら、ありがたいです。

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