理想の主人公はキレた宮沢賢治


 片山順一です。今回は、理想の主人公について。

 タイトル通りなのですが、私の理想の主人公はブチ切れた宮沢賢治らしいです。これは、十年くらい前、ずっと私の小説を見てくれている友人との会話の中でたどりついた定義でした。

宮沢賢治についての私の理解

 宮沢賢治という人とその作品は、義務教育を終えた方ならほぼご存じでしょう。今の岩手県に住んでおられた、明治時代の詩人、童話作家です。

 『やまなし』(クラムボンのやつ)とか、『銀河鉄道の夜』(ザネリとカムパネルラ)あたりを、私は中学までに国語で習ったような気がします。

 高校だと、『永訣の朝』という詩をやりました。「おらおらでひとりえぐも」という言葉が印象的でした。肺病の妹が死の床にある中、「みぞれはびちょびちょ降ってくる」んです。

 ほかに、授業ではやらなかったけど、高校の教科書には載っていた『なめとこ山のくま』とかかなあ。

 カクカクして非人間的に思えた科学の知識や用語の中に、豊かな自然の情感を持ち込んだ彼の感性はとても優れていると思います。

 さて彼の作品ですが、私は青空文庫で『オッペルと像』というのを読んで驚いたのを覚えています。

 『よだかの星』も好きなんですが、彼の作品はほとんどが、優しく穏やかでみずみずしいものが、人間社会とか経済とか能力主義とかルッキズムとかいう、誰が見ても論理的に優れている何かに潰されていくことを描いていると思っていました。

異端の作品、『オッペルと像』

 ところが、オッペルと像は逆なんです。

 ストーリーは単純。オッペルという太ったお金持ちが、象の群れから小さな子供の象をさらってきて、鎖でつないで痛めつけてサーカスで働かせるのです。

 それも彼自身の稼ぎのため。オッペルは他に養蚕もやっており、豊かな森を切り開いて単一の桑を大量に植え付け、そこに同じ蚕を大量に放して絹をとり、産業施設のようにしてしまいます。自然破壊、ということでしょう。

 明らかに戯画化された資本家なのですが、この作品の最後は衝撃です。

 小象の泣き声を聞いた象の群れの仲間達が突然現れ、サーカスも工場も、オッペルが築いた何もかもを全てを踏みつけ、めちゃくちゃに破壊し、オッペルも踏み殺して小象を救出するのです。

 それでハッピーエンド。

 ここでは、オッペル側の全ての理論は完全に無視されています。お金を儲けなければ食べていけないとか、明治日本は列強による植民地化を防ぐために富国強兵によって列強と肩を並べる必要が云々とかいう、2021年大河ドラマの主役が言ってそうな、小賢しい言い訳は存在しません。

 ぐららがあ、ぐららがあ。利益のために自然から小象を捕らえてきて傷つけるという、人間の当然の営みが、巨大な自然の力に完膚なきまでにぶっ潰されるのです。

 私はこの作品に、せせこましい数字や論理的な正しさを追求する社会への、凄まじい怒りを見ました。自然の素晴らしさを感じることができない奴は死ね、という賢治の怒りを。

 美しいものは、柔らかいものは、穏やかなものは常に利益のために収奪される。

 多くの作品でそんな現実を書いてきた分、それがどうにかならないか、いやなるはず、なって欲しいという願いは、作者にとってよほど強かったのでしょうか。

 残念ながら、こういう極端なところのせいなのか、宮沢賢治の小説も戯曲も詩もエッセイも特に売れはしなかったようです。生前に自費出版した詩集があるだけで、彼自身有名になることも特になく、三十代の若さで亡くなってしまいます。

 しかし、私は彼の作品を読みました。魂を振るわせました。

キレた宮沢賢治

 この記事で書いたトム・ヤム・クン!もそうなのですが、たとえば、この間書き終わった『銃と魔法と断罪者』でも、私は本当に優しい人が本気でぶちキレた時の力強さを書きたいのです。

 政治とか、社会とか、歴史とか抑圧的な文化とかが私も大好きで、権力闘争のグロさもつい見てしまうのですが。

 でも一番大切なことは、自然が美しいとか、大切な人と日々を笑って過ごしたいとか、夢を叶えたいとか美しい場所に行ってみたいとか、そんなのでいいのだと思っています。

 なのに、ときに社会とか国や歴史や制度は、人間が楽しむことを圧殺してきます。心を殺しながら生きる道具みたいな人が大きな功績をあげ、それを真似しろ、オマエも心を殺せ道具になれと叫んで、叩きつけてきます。

 無い袖は振れません。食べるものもないのに、本だけあっても仕方ありません。だから、心を殺す競争は、ゆっくり自然をめでる時間とか、大事な人と笑って過ごす時間とか、夢をかなえるための資本とかを作り出すために必要なことかも、知れないんですが。

 そのバランスが狂っているとしか思えないような人や、機構や、その奴隷たちが暴れまわって、我が物顔に全てを支配しているとき。
 ぐららがあと鳴く巨大な象が、なにもかも踏みつぶしていくように、強烈ななにかが、みんなの目を覚まさせることを、私は常に期待しています。

 それは、建設的な代案でも何でもありません。むしろ、そんなことをしないで、そのときのままを続けたほうが。美しいものが弱いまま利用され、殺され続けているほうが、資本社会とか国家とか民族とかは、全体として繁栄するのかも知れません。つまり、『みんなのため』には、弱いものは収奪されていた方がいいのですが、そんなもんくそくらえです。

 順番間違えてんじゃねえぞ。アホが。

 どう考えても誰も勝てないような、恐ろしくて強いものが暴走しているとき、横っ面を殴りつけてそう言える者こそが、私にとっての理想の主人公です。

 宮沢賢治がぶち切れたんなら、そういうやつになるんだと思います。

宮沢賢治をまねるということ

 宮沢賢治は、今というときに、もてはやされる人生の成功者とは言えないと思います。今、社会の利害のど真ん中で必死に戦っている人から見れば、きっと『頭悪い人』でしょう

 作品と名前こそ今も残っていて、国語の教科書に載っていますが、生前本業だった農業の先生としてはあんまりパッとした功績がないとか。女性にモテな過ぎて妹萌えに走り、春画のコレクターだったらしいとか、さんざんな面があったようです。

 結構お金持ちの家に生まれたらしいのですが、お金と力を持つ勝ち組には、生涯なれなくて、必死に書いた文章もそれほど評価はされず、若くして病気で亡くなってしまった人でした。そう感じるお若い方も多いでしょう。

 お金がなければ死ぬしかないような今の世の中で、誰がなりたいんでしょう、そんな人。

 でも優しさと、自然や人間の中にある、決して曲げてはならない美しいものを、全身で感じ取る力を持った人でした。そのために悲しんだり、笑ったり、泣いたり、怒ったりできる人でした。

 だから、後世見出されていったのかも知れません。

 私は2021年の8月21日で、36歳になりました。
 才能の無い宮沢賢治をひた走っているような気分にもなりますが、彼という人が存在したことは、勇気を与えてくれます。書き続けたいですね。

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