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カウンセリングの終わり

 こんにちは。片山順一です。今回は、私自身の事を語ります。

 2021年の10月6日、私は2019年から二年弱続けていたカウンセリングを終えました。

 理由は、カウンセリングを終えていいと私自身が判断したからです。このことは、カウンセリング中にカウンセラーに伝えました。いけないとも、いいともおっしゃらなかったことを、ありがたく思います。

私とカウンセラー


 カウンセラーはずっと同じ。私より若い男性の方です。

 私は彼を信頼しました。それが一種の修行であると思ったから。二年弱、一回一時間のカウンセリングを十八回繰り返す中で、すべてのことをぶちまけました。

 差別主義者、インセルでしかない自分自身。
 友人や両親に隠していた性し好。それを正当化する醜い体験と理屈。
 社会への不満、加害欲。小説が評価されない怒り、同じような人が罪もない人を焼き殺したことへの不安。
 職業もお金も地位も家族もなく、日々をただ生きている私より、頭が悪そうなのに幸せそうに生きているように見える人への不満。

 被害者意識。俺こそ絶対に誰よりも利用されて苦しんできたんだ。だから、全ての不安と不満を取り除き、俺を性的に満足させて幸せにしてくれる最強の誰かが現れるべきだ。そういう、信仰にも似た強い憤怒と思い込み。

 何よりも、十代でインターネットを知ってから、常に自分が現実で内にため込み、深夜のネットでめちゃくちゃに発散してきた、あらゆる部分が自分の中から流れ出しました。

 自分でも初めて書くことができた、長編小説を読んでくれた友人。あるいは、四年以上一緒にバンドで活動してきたメンバーたち。

 彼らに一言も言っていなかったこと、人から評価されなきゃ死ぬしかないと思っている私が、これを知られたら、評価が落ちて死ぬしかねえなと思っていること。本当になにもかも語りました。

訓練されたカウンセラーの反応

 私なら、一目で顔をしかめるようなことを、私よりいくつも若い彼は、聞いてくれました。そして、私が絶対に見たくない、向き合いたくないと思っていた感情の先にある私の歪みを見抜きました。

 もちろん、歪んでいるから悪い、という糾弾の態度ではありませんでした。私が歪みを抱くに十分な思いがあったことも、認めてくれたのです。

『私の認知の歪みは、私が生きるために仕方なく作り上げて来たことなのだ』という、ある種の肯定まで添えてくれたのです。

 だから私には、自分の凶暴性や怒り、加害性の向こうにある自分自身を見つけようとする態度が生まれたのだと思います。

 なんでそんな間違いを行ってしまったのか。なぜ私は一人と思い込んだのか。

 そして、私を利用していたように見えた人たち。この私を迫害してくるのだから、当然にその代償を支払うべきだと思っている全ての他人までも。

 あの冷たく、私のことをなにひとつ理解せず、傷つけてくる最低最悪の群衆共。
 だから私がどんな復讐をしてもいいし、欲望をぶつけてもいいと思っているあいつら。

 彼らもまた間違えたり、歪んだ思い込みを抱いてしまうこともある、幸せになりたいだけの私と同じ人たちなのだ、ということに、やっと想像が及び始めました。

たどりついたこと

 そうだったんです。驚いたことに。あの人たちは、私と同じなんです。

 カウンセリングの中で、私はそのことに気づき始めました。

 だから、信念であり、清い願いで、きっと報われるべきだと思い込んでいた私の中の激しい感情。それが、単なる思い込みと認知の歪みであり、人に向けてはいけないものだ、ということにも思い当たり始めました。

変化

 それは、私を腑抜けにしたのでしょうか。

 絶対に分かり合えない最低最悪のやばい他人が居て、幸せになるにはそいつを完膚なきまでに叩きつぶすしかない。そういう信念を抱けなくなったことは、私から牙を抜いたのでしょうか。

 そうかも知れません。たとえば、私の小説“銃と魔法と断罪者”に、キズアトとマロホシという、当時の私が想像の限りを尽くして、こいつらは絶対に悪いだろうと思って書いた奴らが居ます。主人公たちがこいつらを倒すために、私はこの小説を書いたといっても過言ではありません。

 しかし。2021年の七月に迎えたこの作品の終盤で、彼らが本当に最後を迎えたとき、私の抱いた感情は感慨でした。

 ああ、そういう信念があったんだな。
 まあ、そういう奴だったんだよな。

 私が一番やってはいけないと思う悪の限りを尽くし、法と正義をめちゃくちゃに傷つけて、消えていった彼らのはずなのに、不思議ななにかが生まれたんです。

 私は私を被害者だと思っています。そして、私に被害を与えてのうのうと生きている奴らが居るとも確信しています。実際なにがあったのかなんて、関係はありません。

 思い込みの前には、客観的、論理的な検討などなにひとつ意味はありません。ただ私がそう思っているというだけです。けれど、それは絶対ではないでしょうか。

 でも、そいつらすら。
 そいつらすら、そういう奴なのです。

 私のように何かを信じ、思い込みで突っ走り、人を傷つけることがあったりするだけの奴らなのです。

 じゃあ、殺せないじゃないですか。犯せないじゃないですか。奪えないじゃないですか。
 いくら、それが面白くてすっきりして暇つぶしになるからって。そうすれば人気になりそうでお金が稼げそうで人生が広がりそうだからって、苦しめたら可哀そうじゃないですか。

 だって、私は生きたいんですよ。私と同じ彼らも、きっと生きたいんですよ。

気付いたもの

 そうだったんですね。
 カウンセリングの中で、私は自分と他人は絶対的に他人同士でありながら、それでも、お互いを思いやる必要のある何かでもある、そう気がついてしまったんです。

 以前述べた気がしますが、私は馬鹿が嫌いです。私が馬鹿になることも嫌いです。

 ここまで確かに自分の中で感じたことを、無視するのは大馬鹿です。

 私には依然として、被害者意識や加害欲と支配欲、危険な程の復讐心、ねじ曲がった性し好が黒々とくすぶり燃え盛っています。

 だけれど、もうそれらの感情には強いブレーキがかかるようになりました。

 どれほど自分の中で『他者を苦しめていい』という理屈を作り上げようと。
 それは絶対的に間違っているから。

 だって、彼らは私なのです。
 私は私を殺したくない。私は私を苦しめたくない。
 だから、彼らも殺されたくないし傷つきたくないし、苦しみたくない。

 人を加害してはいけない。

 カウンセラーは私の中に、この気持ちを育んでくれました。

妙な確信

 もちろん、この先、私が何を見、出会うのかは分かりません。
 客観的に言って、私の生活はぬるいものです。だからもっともっと先鋭的な、『もういいだろやっちまえよ』、という状況が訪れるかも知れません。

 あるいは抗うことが絶対的に不可能なほど芸術的で完成度の高い、復讐しまくって人類を絶滅させてひゃっほー最高!みたいな優れたゴミ作品に出会い、感動しすぎてその信者になってしまうかもしれません。

 だけど、多分無理になってしまいました。
 小説の人物すら、出てくる人はみんな私だったのです。

 もういいんです。
 私よりいいとか悪いとか、もっとやばい思い込みとか歪みとか変な行動とかがあっても、いいんです。

 私の人生がその人と比べて、不当で不平等なにかであったとしても。
 私より何か劣っていると私には思える、誰かであっても。

 幸福に生きてください。
 自由に生きてください。

 苦しまないでください。

 それぐらいなら、私が多少損をしても、構わないから。
 あなた方は、私でもあるんだから。

 私は私のこういう性根を、さんざん憎んできました。

 こんな性格のせいで得ができない、まともになれない、賢く立ち回れない、利益に与れない、このお人よしのゴミ野郎がいい加減にしろと、さんざん自分に思ってきました。

 けど、それが私だったんです。
 そこからは逃れられないし、逃れなくてよかったんです。

 おぞましい怒りや目を背けたい感情、過去への恨みつらみ、こんなの絶対私ではないという絶叫にも似た激しい感情。カウンセラーに思いつく限り全て吐き出した結果として、私がたどりついたのが、嫌い過ぎる自分への肯定の気持ちでした。

 それは、私を救ってくれます。

 Y先生。本当にありがとうございました。
 カウンセリングに使うお金すらもったいないと思えるかどうかは、分からないけど。

 私は少しずつ、前に進んでいこうと思います。

 そう思えるまでに、私は三十六歳になってしまったけど。
 たくさん、人を傷つけてしまったし、いろいろなものを失ったんだと思うけれど。

 なんとか生きていきます。生きようと思えます。
 だから、カウンセリングは終わっていいと思えました。

 もう一度、ありがとうございます。ここまで読んでいただいた方にも。

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