5月19日午前1時 マスターピース

排便を終えて振り返ると、便器の中に惚れ惚れするような見事なうんこがあった。しかも一つではない。いや、もちろん潔い一本糞も、粋で本寸法、豪放磊落、単刀直入、一気通貫って感じでいいんだが、今日のは何ていうかまず、「こんなにしたっけ?」っていう、何本ものうんこで出来上がった構造物といった風合いで、しかも一本一本の出来がいい。何か古代遺跡を見る神のような気持ちで、自分がジャニー喜多川だったら思わずグループ名を付けて今年の秋にはデビューさせてただろうというくらいのうんこ群だった。

インスタのアカウントを一応持ってはいるが、完全に見る用だ。基本的に人に見せるような写真を撮る習慣がない。ただ今日のようなシチュエーションでは唯一、「これをインスタに上げたい」と思う。みんなに見てほしい、このうんこを。おれの傑作を。でも、そこはやっぱりやらない。そのブレーキはバカになってない。志村けんじゃあるまいし。よく知らないが、きっとうんこの写真を上げるのはインスタの規約にも抵触するだろう。

大体が、他人のうんこがインスタに上がっていたとしたら、きっと自分自身は不快な気持ちになるだろうと思う。誰のだろうが見たくない。中国からやってきて熱心に日本語の勉強をしてくれているロン・モンロウちゃんが毎日かかさずストーリーに上げる日本語の日記を楽しみにしているおれだが、それでもやっぱりロン・モンロウちゃんにうんこの写真を上げられたら困る。それがどんなにいいうんこでもだ。

ここから何がわかるかと言えば、自分の内側から出てくるもの、その中でも最も価値が非対称な、つまりはどれだけ自分にとって素晴らしくても他人にとってはそうじゃないものは、「いいうんこ」だということだ。どれだけの傑作だったとしてもそれは厳しい。小津安二郎だって自分のうんこを撮ったフィルムは封印したはずだ。ダ・ヴィンチも黄金比のうんこは残していない。

今日も地球上で大量の傑作うんこが、ほとんど他人の目に触れないまま葬られたことだろう。悲しいことだと言いたいとこだが、おれの以外はおれにとってはただの汚物なので別にいい。まあ、あれだ、うんこは人知れず愛でることにして(元々してるが)、それ以外の工夫次第で価値を理解してもらえるかもしれないものに集中しようってな話なんじゃないかな。何かいいこと言ったっぽいだろ。

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