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連載小説【夢幻世界へ】 3−10 第三項の機能

【3−10】



「ハンナさんが言いたかったことはこうした悪の相対性についてなの?」

 緑色のワンピースを着たハンナは目を伏せつつ、答えを導き出そうとする。

「私は暴力や権威や権力、力と言ったことを主に取り扱い考えてきました。悪という高度に抽象的な概念は、そうしたカテゴリの複合体(コンプレックス)だと思います。そう、元型の中の大きな元型、元型の親玉ってとこかしら」

「しかしその元型は、皆さんが思うようなものではないかもしれません。悪の本質はありふれたもの。中庸なもの、平凡なものであると私は考えました。悪は二項対立の一方の極ではなく、その二項対立に対する姿勢、といってもいいかもしれません。その姿勢の特徴は、無自覚的な受動性であり、非共感であり、思考停止による暴力的行為の増大=悪が生み出されます。日本や当時のドイツのように、中空構造の組織が強固になり、構成素が流動性を下げていったとき、思いがけない隙間が出来、大きな悪を発生させる土壌が生まれます。そして発生した悪には意志がない。指向性はありますが、それ自体の意志はない。あるとするならそれこそ集合的無意識、複合体としての元型的意志です」

「人間にはその複雑な存在を構成する様々な活動が存在します。精神活動のうち、感情、知覚、理性については哲学的考察が積み重ねられてきました。身体的活動については生産と労働の社会科学的研究が膨大に蓄積されてきました。人間関係の面では、言語活動、社会組織、政治権力などの研究史は有史以来たいへん長く続いています。ところが、悪の一側面である暴力的行為、人類史の前景を占めている暴力的現実についての理論的考察はほとんどありません。ハンナさんは例外的です。言語には言語学があり、労働に経済学、権力に政治学があり、理性に哲学があります。しかし暴力にはこれに匹敵する学問は存在しません。『暴力の知』のみが理性的反省の圏内から『暴力的に』排除されています」今村仁司が言う。

「理性的に暴力を考察するならいいけど、理性的な暴力って、なんだか矛盾しているわね。すぐくっつけたがるのは私の悪い癖だけど」

「暴力を行使するとき、その主体者は無我の境地に陥っているのでは。理性的な判断なんて期待できないよ」

「理性的な暴力はあるわ、存在そのものがそれよ」

「存在論にするのか。いや、だからこそ理性的な暴力知の集積が必要なのだよ」

「暴力の本性が依然として暗闇にとどまるなか、その最大の現実は死です。死を避けるように暴力の考察を避けることは、人類の怠慢でしょう。理性に残された未完のプロジェクトがあるとすれば、それは暴力の本質・本性・作用・機構を解明することであると私は思います」今村仁司が言う。

「そして悪についても。悪の起源については昔から色々な説がなされてますよ。ギリシヤ哲学者たちは悪の起源を人間の無知にあると言ってます。ゾロアスター教では先程来の善・悪の二元論が唱えられ、善は霊、悪は物質という考えはストア哲学からキリスト教に影響を与え、肉体そのものを悪としました。キリスト教では神への不服従を悪とも考えます。他に悪の起源は人間の不安であるとか、人間の有限性にあるとか、文明の発達が悪を生み出したであるとか、貨幣経済が悪い、人間に残っている動物的な性質が起源だ、いやいや実は悪などは幻想でそんなものはないのだ、とか、果ては悪は被造物の中で、人間が自由な決断が可能となる最高の完全性を持つものだ、とか」宗玄が付け加える。

「どれもこれもいまいちね」

「ここから長くなりますが、しばしお付き合いください。暴力は人間存在の本質に根差していると考えます。個物の存在は、その生成は原初的暴力なしには不可能です。原初的暴力とは『暴力的に切断線を引くこと』です。それにより、渾然一体であった物象界から個別の一個が現れます。個物と個物の原初的な関係は相互排除、相互敵対関係です。ここには秩序はまだ存在せず、根拠もない。この世界に秩序を発生させるには、原理上、ただひとつの個物が排除されるだけでいいのです。これを『第三項排除』と呼びます。
 排除された第三項が、暴力を被った痕跡を拭い去られるとき、この第三項の聖別化が生じます。聖別化の具体例は地球上のさまざまな儀礼に見られますね。排除と聖別化によって生まれた第三項は、秩序そのもの(秩序の中心)になります。この中心を権力と呼ぶなら、権力の担い手は排除された第三項です。秩序ある世界を組織と呼ぶなら、すべての組織は第三項排除の効果の中で、またそれによって作り上げられます。そして成立した組織や秩序の体系は自己の中に暴力を内蔵しつつ、同時に別の形で暴力を再生産し続けるでしょう。このとき、ここが重要なのですが、暴力はもはや赤裸々な物理的暴力の形は取らず、形式を付与され合理化された暴力の形式をとります。『理性的な暴力』ですね。
 まとめて言うと、暴力の概念は第三項排除です。排除の力はあらゆる領域に浸透し、人間と自然、人間と人間の関係を横断します。思想、経済、政治の組織化もこの排除の力によって駆動します。形而上学的体系にも、資本主義経済の中にも、暴力としての不可視の第三項排除が貫徹しています。人間は暴力を合理化し抑制する装置として文化・文明を作りましたが、同時にこの装置は危機に出会うたびにしばしば物理的暴力を拡大再生産してきました」

「今村くんが言う第三項の機能は、無差別の空間、つまりあらゆる差異の抹消と、両義性、一にして多である、ということでしょ。なんだか華厳のいう事事無礙の世界観に似てない?」

「仏教的レンマの知が、ロゴス的知によって締め出されたようにも見えますね。本来はレンマ的知という素地があって、ロゴスが活動できるっていうのに」

「悪の本質は他者への無関心、尊敬の念の欠如じゃ」幾多郎が言う。

「その他者というものが、なにか、という問題もあろうな」バシュラールが続ける。

「たしかに悪を大きな元型として捉えるというのもいいかもしれない。しかし元型と言ってしまい、詳細な分析を諦めてしまわぬようにしなければならない。そうだろ、東方の人よ」

「はい、そうです」ユングの登場に、今村はいささか緊張した。

「第三項は西洋キリスト教では、三位一体の概念から推察できる。神、精霊、キリストにおける第三項は精霊であり、第一項と第二項の和解を可能とするのは中立的、媒介的な精霊の機能である。精霊はこの場合、法的、環境的、場的存在であるが、ここにはじつは善も悪もない。言い換えると善でもあり悪でもある。この善でもあり悪でもある存在を、逃げずに受け止めることが肝心なのだ。先程誰かさんも言っていたが、精霊に対する敬愛や関心が、安定した世界を作るのだ」ゆっくり穏やかではあるが、良く通る声でユングは発言し存在を知ら示しだす。

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