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読書ノート 「柄谷行人書評集」 柄谷行人


 「週間読書人」の出版部出版。2017年に刊行された。2005-2017年の間の、柄谷行人の書評、作家論、文芸時評、文庫・全集解説などをまとめたものである。

 『世界史の構造』『哲学の起源』『力と交換様式』『哲学の起源』で伴走するようになった柄谷行人であるが、ここでは、『排除の構造』『現代思想を読む辞典』『アルチュセール』の著書で、敬愛する今村仁司の『抗争する人間』の書評が冒頭に掲載されている。これを記す。


 「本書は、社会哲学者として知られた著者の、これまでの仕事を集大成するような力作である。

 著者はくりかえしこう語る。共同体や国家には根底に暴力がある。それらの秩序は、ある一人の人間を犠牲にすることによって成り立っているからだ。そのことは、平等が達成されるような未来の理想社会においても変わらない。

 このような暴力の源泉には、他人の承認を求める人間の欲望がある。

 それは他人に優越しようとする社会的欲望であり、このために相互的な競争が生じ、そこからは誰か一人を排除することによってしか安定した秩序が形成されないのである。

 これは、著者が若い頃から、ルネ・ジラールの欲望論を引いて主張していた理論である。このような理論は、理想主義が強かった時代には意味があったと私は思う。なぜなら理想主義がうらはらに残酷な社会体制を作り出すケースが各所に見られたからである。

 だが、ソ連が崩壊し、一切の理念をあざ笑うシニシズムが蔓延したのちに、さらに国家が露骨な暴力性を示している時期に、このような主張は何を意味するのだろうか。

 著者は、究極的には、暴力に依拠する制度を廃棄する可能性があると考える。

それは「覚醒倫理」、すなわち、「こうした欲望との批判的対決であり、対他欲望を消し去るための闘い」によってもたらされる。

 しかし、これは、宗教的悟達に似ている。

 歴史の原動力を社会的欲望(仏教でいえば煩悩)に見いだす理論、あるいは、自己意識から出発する理論は、そのような解決(解決不能)しか見いだせないのである。

 実際、ジラールは(ある意味でラカンも同様であるが)人間が解決不可能な困難をもつことを執拗に示すとき、暗黙裡にキリスト教という救済措置をもっていた。

 人間がいかに無力であるかをいえばいうほど、信仰による救済が示唆される。つまり、根本的には保守派の議論なのである。著者の今村氏もそうなのか。あるいはそうでないのか。本書では、その辺がまだ不明瞭である」

『抗争する人間(ホモ・ポレミクス)』今村仁志   2005・4・17



 今村仁司が保守派、信仰に救済を求めているかどうかは、このあとの今村の活動に現れている。つまり、仏教の世界、真宗大谷派東本願寺派の清沢満之の研究に没頭し、親鸞から仏教の精神を現代的な救済に据えようとした。しかしそれは客観から主観、知性から万物一体へ軸足を移すというものであり、「保守派」という枠組みからは遠く外れている。


 ここでは明確に語られていないが、ルネ・ジラールの思想・欲望論→「第三項排除の法則」(個別の排除者による社会の安定)を「理想主義が強かった時代」のものと柄谷は言うがはたしてそうであろうか。第三項排除効果は人間の精神構造に由来しており、時代を超えたものである。実際、神話の世界から現代まで、第三項排除による安定はいたるところに事例があるし、冷戦が終わろうが差別の消滅が来るわけでもなく、熟成した自由資本主義社会はグローバルサウスという排除項目を基底として貧富の格差が増大することになすすべもない。それどころか拍車がかかっている。この構造は限定された一時的なものではないのだ。


 柄谷自身も交換様式の第4段階である交換様式Dについては「向こうからくる」として、宗教的啓示の側面をそろりと顕わにしていることから、「排除と啓示」、今村の思考と類似、もしくはヒントを得ているのではないか。ここから導き出される帰結はなんだろう。そうか、暴力も交換様式のひとつか。

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