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連載小説【揺動と希望】 1−4

【1-4】



 私だけの世界はここにある。暮らし、楽しみ、哀しみ、退屈、静けさ、法螺、絹の肌触り、お日さま、水道の蛇口、深爪、苦悩の吐息、みんな私のもの。そう、赤ちゃんも三毛猫も仏頂面の彼も。

 私は難民キャンプで生まれた。イランの西部の街、ホラムシャハルは爆撃の焼け野原だった。私は長いあいだ一人ぼっちだった。ジャスミンが来てくれなかったら私はあのままあそこでのたれ死んでいただろう。テヘランに移ったときはこれでお腹いっぱい食べれるのだという喜びしかなかった。

 孤児院での私の写真は見れたものじゃなかった。そこで私は静寂と喧騒を知った。真っ暗闇で安心して眠れること、昼間の孤児たちのはしゃぐ声、孤児を集めて大声で話すせんせい。みんな頼りにはならず、頼れるものは夜の暗闇だけだった。

 ジャスミンはテヘランの手前の村で撃たれた。部族のテロリストはおもちゃを壊すようにジャスミンをいたぶり、挙句の果てに撃ち殺した。私はその光景を忘れたくても忘れられない。視たままの景色が静止画のように私の脳蓋の裏に張り付いている。それは引き剥がすことができず、わたしを内側から作っている。

 私は一人で生きてきた。でも実際は沢山の人の助けのおかげで生きている。だけれども、自分自身の力で生きてきたと言いたくなる。そうでないと、しっかりと立ってられない。這々の体で日本に来たときも、自分には運があるのだとたかをくくっていた。助けてくれた美里おばさんには申し訳ないけど、長い間そう思っていた。ホームレス同然の私をアパートに住ませてくれたのも、保証人になってくれたのも、観光ビザから就労ビザへの切り替えを申請してくれたのも、養母の面倒を見てくれたのも美里おばさんだった。鍛冶谷校長先生も私に一生懸命日本語を教えてくれた。私はそれに応え、賢明に勉強し、高校、大学へ通うことができた。私の容姿に価値を与えてくれ、マスメディアの仕事ができるようになったのも、善意の関係者がたくさんいたからだと思う。でも、それでも、やっぱり、私が頑張ったからなのだ。

 今私はここに幸せがあると思っていた。最愛の人との最愛の子供、生きるに充分な住まい、飢えることの知らない毎日、心地よいコミニケーションの雲。これは私だけのもの。だれにも邪魔はさせないと。

 そう思っていたのに、あっという間にすべては泡に帰する。魔獣がやってきたのだ。魔獣はまず電話をし、私がいないことを確かめて部屋に押し入った。大事なかわいい私の天使をナイフで刺し絶命させ、怒り狂う彼を殴り殺した。彼らは集団であったが皆虚ろにSNSで集まった見ず知らずのやくざれ者同士だった。罪の意識は遠い何処かにおいてきたらしく、まるで「わたしたちは被害者です」とでも言いたげにぽかんとした表情のまま、時には薄ら笑いを浮かべ、収監されていった。

 私の怒りは怒髪天を衝く。天にも昇るいきおい、という言葉が適当かどうかはわからないがそんな気持ち。この怒りをどう手懐ければいいのか、まったく私にはわからない。私は怒っている。私の世界はこの怒りでそれはここにある。この怒りという強固なエネルギーをもって、私は生きているという実感を持つ。そうでなければ、やはり私は生きていけない。

 私は、世界を壊しにいくだろう。理不尽な悪魔のいる世界を。世界をこの手で変えてやる。
 異世界が降って湧く。どうどうと流れる滝のように。憎悪の滝の中には蚯蚓が。蚯蚓の独白。
 
 みんなを操ろうなんておこがましいけど、世界を変えてみせる。操るのではなく、皆で変える、その素地を作るの。たぶんそれをするために私は地獄から、ホラムシャハルから日本に来た。

 私の名前は、アーヤ・ジャスミン・ミサト。


 

 三隅正和は病院のロビーでスマホをいじっていた。繋がりが悪く、アンテナ表示が一本しかつかない。男子学生の傷の手当を看護師に任せ、エントランスから街に出る。まだサイレンが鳴り響くなか、スマホに着電がある。アーヤ・ジャスミン・ミサトからだ。

 「もしもし、どうした」
 「ニュースを見たわ。怪我はないの」落ち着いた様子でミサトは問いかける。
 「ああ、かすり傷だよ。大丈夫」
 「そう、よかった。じゃあ、本題に入るわ。プロティノスの『エネアデス』に「悪について」の章が五十一番目にあるわ。そのことについて喋るわよ。長くなるから何処かに座ってね」
 「いつもながら急な話だな」
 「今日が人類最後の日だとしても、私は貴方にこの話を切り出すわ。なぜならいま私が話したい、訊きたいと思っていることだから。ひとつずつしか人は動かないの」
 「内心の自由は誰にもあるとは言いますが、こっちもそれなりに忙しいんだけどなあ」
 「プロティノスは悪は素材のことだと言って魂と区別しているけど、善と悪は表裏一体だと私は思うの。善かれと思って行ったことが立場が変われば悪になるでしょ」
 「見方だけで言うならそうだが、真実在は明確になるのではないかな。存在が善、という前提が崩れない限り、悪は欠如したものという汚名を着るだろうよ」
 「だから、存在は善なんて誰が決めたの。存在が疚しいものなんて世の中にはごまんといるじゃない。私はそうしたものをたくさん見てきたわ」
 「君の辛い心情には無論同情するが、『善』そのものに異議申し立てをする気なのかい。ややこしくなるだけだぞ」
 「関係性の問題よ。善も悪も、一者も素材も、すべては繋がり、すべてはひとつ」
 「すまんが、何が言いたい?」
 「組織を、共同体を作ろうと思う。あなたに手伝ってほしい。金と人が要るの」
 「現実的だな。しかし現実的すぎて気持ちがいい。組織で何をするつもりだい?」
 「ボランティアよ。困っている人を救うの。見返りのない施し。いままで宗教が担っていたことを、宗教無しで行うの」
 「いや、それは行政の仕事だろ。税金取ってるんだから。役所は国民の下僕、というじゃないか」
 「そんなものに任せてはいられない。それに目的はそれだけではないわ」
 「なんだか雲行きが怪しそうだな。会って詳しく聞こう。まずは現実の場所と金と人だな。考えはあるのか」
 「東京の芸能プロダクションに伝手があり、大物政治家のコネもある。お金は、あなたが知っての通り、あの国から無尽蔵に来る」
 「ばけものだな、ミサトは。俺には抗う力もない」
 「人を、意志の高潔な人材を探してほしい。人間を信じる気はないけど、それでも素地は重要よ。素材に罪はない」

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