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読書ノート アルチュセールに関する3冊



「アルチュセール」 今村仁司 清水書院

 アルチュセールを語るには、マルクス主義について知らなければいけない。著者が言うように、マルクス主義といってもそれはひとつにまとめあげられた思想体系があるわけではなく、各自各様、各国によってその主義主張は異なる。つまりはロシアのマルクス主義、中国のマルクス主義、フランスのマルクス主義、といった風にである。アルチュセールはフランス人なので、この場合は自動的にフランスのマルクス主義になる。アルチュセールは当時のフランスにおけるマルクス主義の様々な主張に論戦を挑んだそうだ。

 マルクスとアルチュセールの関係は、フロイトとラカンの関係(フロイトを読み直すラカン)と同じものだろう。アルチュセールはマルクスを読み直し、新たな方向性や解釈・示唆を発見したと、ぼんやりと思っている。その紹介者として今村仁司がいる。ラカンにしてもアルチュセールにしても、重要なのは彼らが御大の思想に批判的精神をもって取り組んだところだ。アルチュセールは批判的態度に極端にまで厳しく、忠実であろうとした。そうすることでマルクスの思想をほんとうの意味で継承し、活性化することができると考えたのである。
 と、ここまで書いてきたが、この本の特筆すべきことは、著者今村仁司の珠玉の言葉、それも読者へ話しかけるような、生きの良い言葉が散りばめられていることであろう。
 「いつの時代にも、独断論の夢に酔える人々が制度になった政党のイデオロギーをつくり、こうして党を支えていく」「偉大で輝かしい労働運動の蓄積、他方で世界に冠たる思想の貧困、この二つのものの驚くべき対照。これがフランスーマルクス主義の背景をなす」など。こうした言葉を集めていく。

  • アルチュセールの思想形は、バシュラール、カンギレムの「科学的認識論哲学」の系譜の延長線上にある。

  • アルチュセールの仕事は、①初期マルクス研究②弁証法研究③『資本論』研究④イデオロギー論、とされる。すべてはマルクスの思想の進化発展を目指した。

  • ヘーゲル、フォイエルバッハ、マルクスの流れ。

  • 問題設定とイデオロギー。「それぞれのイデオロギーは、固有の問題設定によって内的に統一され、またその意味を変化させることなしには、一つの要素も抽出できないような現実的全体と考えられる」この土台からの断絶が若きマルクスには必要だった。簡単に言うとそれは「歴史の大陸の発見」「歴史についての科学的概念の創造」。

  • 「あらゆる資本主義の害悪を乗り越えたはずの資本主義社会で、どうしてスターリン主義の政治的逸脱が生じたのか。これをマルクス主義は説明できるか。現実が間違っているのか、それとも論理が間違っているのか」といった問いが立つ。それに対してアルチュセールは「マルクス主義には厳密さがかけていた」とし、「マルクス主義の概念とその亡霊とを区別する厳密な把握」が必要で、マルクス主義の中の亡霊はヘーゲル弁証法の中の亡霊であるとし、その取り出しを行う。

  • マルクスの「矛盾」はつねに複合的全体の中で「重層的に決定」される。

  • 諸矛盾があるひとつの地点(現時点)に集中し爆発する、これを「重層的に決定される矛盾」と言う概念で説明すべき。

  • 社会とはなんであるか。精神や文化を含めた物質的な活動の総和。それをマルクスは上部構造と下部構造と言う形で説明した。別の言い方では「作用・効果の階層化された有機的全体の構造」。

  • 未開社会はこの理論では説明できない(だから柄谷行人は「交換様式」理論をうみだす)。

  • 呼びかけによる振り返りが、個体を主体に変える。

 「弁証法」をこねくり回すと、どうもおかしくなりそうである。論理的、というまやかしがそこにはありそうだ。この本では触れられていないが(この本が書かれた1980年段階では、アルチュセールはまだ生きている)、1980年、アルチュセールは長年連れ添った妻エレーヌを絞め殺している。つまり狂ってしまった。心神喪失状態につき免訴され、その後瓦解し、自伝を記している。何が彼を狂わせたのか興味深い。いつかその自伝『未来は長く続く』も読んでみよう。ちなみに『重層的な非決定へ』は吉本隆明の本の名前。なんだかカッコいいよね。

「あなたを見ていて気に入らないのは、あなたが自滅したがっているところよ」
(アルチュセールにとある女性が投げかけた言葉)


「ルイ・アルチュセール 行方不明者の哲学」 市田良彦 岩波新書

 今村仁司が「アルチュセール」を執筆した頃、まだアルチュセールは妻を絞殺していなかった。そこから四十年経ち、すでにアルチュセールも、今村仁司もこの世にいない。資本主義の綻びが広がっていく現在、マルクスの思想を考え直す、もしくは改めてそこから考え出すということが意味を持つのではないだろうか。

 こちらも外部状況の変化のなか、夢の質が変化して、現実と夢の線引が揺らいでいる。仕事の夢をよく見るようになる。視覚がない、聴覚だけの夢(明石家さんまのラジオ番組であった)をみる(いや、聴く)。聴覚だけの夢は、ほとんど幻聴の世界であった。夢と現実は密接につながっているのだが、こうしたはっとする夢の表出は、どういうからくりになっているのだろう。経験的には、持続して意識的に夢を観察しているとそうなるのだが。

 精神錯乱を発したアルチュセール、その要因は何であったのだろう。
「アルチュセールにとっては、目覚めていると知りつつなお見ることのできる夢、睡眠と覚醒のいずれも飛び越えて見ることのできる夢が想像の本性であり、精神の活動としての想像力は身体の活動に束縛されない」「(アルチュセールは)ただ幻覚を見たという幻覚を伝える。それほど、あるいはそういう意味で、アルチュセールは『錯乱』している」(市田)
 若い頃から心を病み、精神病院通いが断続的に続き、統合失調症から双極性躁鬱と診断される。パリで起こった佐川君殺人事件を契機に自伝を書き、自らの異常と正常を社会に訴える姿は、人生に対するひりひりとした不安と切迫感を感じる。

 彼の苦悩の源は、冒頭で語られる『ルイ』という名前の由来における自己の二重性にある。『ルイ』は母親の許嫁であった、彼の父親の弟(そのルイは戦死した)の名であった。この始まりが、彼の人生の方向性を決定した。生まれたときから彼は行方不明だったのだ。彼は特にスピノザを熱心に学び、独自理論に昇華している。この本における主たる内容(資本論とスピノザと偶然性唯物論)より、未来に役立つ解答っぽいものは導き出せないが(よく読めていないだけ)、あんまり突き詰めないほうが良いのかなあ、などとアルチュセールをみていると感じてしまう。


「アルチュセール自伝 未来は長く続く」 アルチュセール 河出書房新社

 
 可哀想としか言いようがない。アルチュセールの人生は、はじめから凌辱されていたのだ。

「私がこの世に生を受けると、ルイと命名された。ルイーこの名前を、私は長らく憎み続けた。母音が一つだけで短すぎるし、末尾に来るイは鋭い高音で終わるため、それで傷つけられるように感じたのだ。また、この名前は私になりかわり、少々しつこすぎるほどの強さで「諾(ウイ)」と告げていたということもあるだろうし、母の欲望を「諾(うべな)う」ことはあっても、私の欲望には応えることのないこの「諾(ウイ)」に、私は強く反発したのだった。更に困るのは、この名前が人称代名詞三人称の彼(リュイ)とも読めるため、その響きが名もなき第三者を呼ぶ声にも聞こえ、私から固有の人格を奪い去り、私の背後に隠れたあの男(戦死した父の弟・母の元許嫁の「ルイ」)を暗示したということである。彼はもともとルイだった、母が愛した叔父であって、この私ではなかった。
 ヴェルダンの空に散った弟のルイを偲ぶということで父が望んだ名前ではあるが、かつて愛し、終生愛しつづけた婚約者のルイを偲ぶということで、更に強くこの名前を望んだのは母だったのである」

 アルチュセールは狂ってはいない。ただ、人生に疲れていただけだ。その、あるがままを書いただけ。存在の現実態。これは書かずにはいられなかったアルチュセール自身によるアルチュセールへの讃歌であり、鎮魂歌である。

 
 


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