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読書ノート 「クララとお日さま」 カズオ・イシグロ 土屋政雄訳


 これはエスエフです。子供の成長を手助けするAF(人口親友)として開発されたロボット・クララのおはなし。ノーベル文学賞受賞第一作。

 雇い主の少女ジェシーは何の病気なのだろう。姉のサリーの病気はジェシーとなにか関係があるのだろうか(あります)…と、読み出すと疑問符が頻出する。

 「性格が変わる」ことは人間にとっては普通のことだが、クララには学習しなければならないことなのだ。ジェシーの母親が言う「懐かしがらなくてすむって、きっとすばらしいことだと思う。何かに戻りたいなんて思わず、いつも振り返ってばかりいずにすむなら、万事がもっとずっと、ずっと……」。母親は大きな悲しみを抱えているのだろう。その悲しみの理由は徐々に明らかになる。

 ネタバレになってしまうのだが、徐々に弱っていくジェシーは、「向上処置」を受け、その副作用で死にかけているのだ。クララは以前自分が経験した、「お日さま」の力を信じて、ジェシーも「お日さま」の栄養で蘇らせたいと願う。クララ自身が光エネルギーで動くことと、老人と犬の再生の現場を見たことから、いうなれば「光の信仰」とでもいうべき宗教心が芽生えている。太陽の光で再生を願うクララは信仰心の熱い修道女のようでもある。

 それに引き換え、人間たちが現世的で打算的だった。ジェシーが亡くなることを前提に、彼女自身をクララを介して複製しようとする人間たちの欲望の矮小さを、荒んだ会話で表現する。

 人間もロボットも、自らが見たり聞いたり経験したりした事からは逃れられない。その制約の中で世界を作るのだ。そういう意味では人間もロボットも同等であるが、ロボットのほうが夾雑物のない論理的な世界がその内面に広がるのだろう。クララの純真さ(?)がヒリヒリとした痛みになる。

 最終的にジェシーは元気になりハッピーとなった使用者家族とは裏腹に、クララはなんと用済みとされるがそこには何ら悲しみはない(この辺りの心情も純粋な奴隷の心情と酷似していて気分が悪くなる)。昔のAF販売店の店長が最後、クララに励ましと褒め言葉を投げかけ、この物語は終わる。クララの一生(まだ続くのかもしれないが)は幸せなものだったのだろうか。いや、そう考えることすら意味がないのだろうか。

 クララ=ロボットと召使い=奴隷を想像するのは、その扱いがいかにも中世的な主従関係として描かれているからだ。主従関係の好きな人類は、これからクララのような召使いロボットを強く求めるようになるのかもしれない。簡単に、自分でするのが嫌なことは「ロボットにやらせればいいや!」と考えるかもしれない。人を二元論的に分離・断絶する気に喰わない世界である。

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