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安愚楽牧場被害者の愚痴

 少し前の話ですが、私が今でも貧乏である原因の一つに、ある詐欺の被害者になったことにあります。安愚楽(あぐら)牧場ってご存知でしょうか……こつこつためたお金で牛を書類上で購入し、子牛が生まれたら売って利息になるというアレです。
 入会して二年目に破たんしました。一時は新聞やテレビのトップニュースになりましたので未だ記憶されている人もいるかと思います。
 被害者には数億を預けた人もいらっしゃるのでそれを思えば微々たる金額ですがそれでも六桁万円は今でも痛いです。安愚楽牧場は当時、派手な宣伝をしており、かつ著名な経済学者であった某氏が熱心に推しておりこれならと信用してしまいました。現在、氏は立派な野党政治家になっており、私は彼の顔をみるたびに複雑な感情に襲われます。結局詐欺は一番最末端にある無名の庶民が泣き寝入りする羽目になる。

 子牛を打って利息をもらうというやり方は和牛預託商法……読み方は、わぎゅうよたくしょうほう、といいます。現在ウィキには、はっきりと詐欺と書かれています。以下の二行は抜粋です。
↓ ↓ ↓
和牛の飼育・繁殖事業に出資を募った上で、出資金を配当に回す自転車操業を行ったり、約束した配当を行わないという詐欺商法の一つで、現物まがい商法の一種である。

https://ja.wikipedia.org/wiki/安愚楽牧場

 欲張りがすぎると、こうなるという見本ですが、当時は私は別に欲張りでもなんでもなく、いずれ子供にもお金がかかるし、老後のことも考えたいと思って投資しました。私には難聴があり、いつしか聴力を失って働けなくなるという恐怖があるのです。遊び半分の投資ではありません。
 牧場への投資……株式や外貨に投資するよりも、生き物である牛の方がなんとなく牧歌的なイメージもありました。その結果、騙されました。投資どころではありません。例の震災後でも東北地方にあっても、安愚楽経営の牧場は大丈夫と過度な宣伝が続きました。震災がきっかけで、投資を引き上げた人が多いのでそういう宣伝になったのでしょう。私も不安を感じ、やめようとおもっていた時期です。が、仕事と子育てで忙しくそのままずるずる預けていた結果、破綻しました。
 裁判で被告となった会社代表者の豪華な生活が判明したという報道を見て私は自分の愚かさを責めて泣きました。被害者の心情は、企画した本家詐欺師や推した経済評論家、政治家など頭の良い人には理解できないかと思います。
 なお、詐欺と認定されてから十年以上たちましたが、現在もお金は戻っておりません。今回のテーマはそういう壮大な話ではなく、身近な話です。
 私は実母を引き取ったのですが、それまで近くに住んでいた実妹の母への虐待と母の貯金の散財が判明、同時に母の実妹による母の実印の不正使用が判明しました。
 ほぼ現金がない中、紆余曲折の末、なんとか施設に入れることになりました。で、私は当たり前に普通に働いています。私は働かないといけません。
 母の知人が私の家の経済状態を心配して「あんたとこ、安愚楽牧場にだまされてろくに貯金もないやろうに、お母さんの治療費とか大丈夫なん?」 と言ってきました。母は我がままで病室は必ず個室、食べ物にもこだわりがあり手を焼くのはわかりきっていましたが、問題はそこではなく安愚楽牧場というキーワードです。
「どうして知ってるのですか?」
「あんたのおかあさんが笑いながら教えてくれた」
「……」

 読者さんで優しい人がいましたら、どうぞこの時の私の心情を理解してください。一生懸命貯めたお金が詐欺師の贅沢三昧に使われて帰ってこない悲しみもありますが、まったく違う種類の悲しみを感じたのです。その時は黙っていましたが、実妹や叔母の悪行に加えて、母のだらしなさによる、保険証書や各種契約書が行方不明で再発行手続きなど余計な仕事が増えたこと、一人暮らし中の新聞契約や各種配達物、食品や化粧品などの定期通販の契約があり、解約するなら違約金支払えというものがありました。もちろん全部解約手続きをしました。しかし、その交渉が煩雑なところがありました。老人世帯、しかも経済的に無知な母になぜそんな十数年もかかる契約をさせたのかと疑問をぶつけると、とにかく契約書を見ろ、ここに本人のサインがあるだろ、約款もきちんと見ろと罵声を浴びせたところもあります。
 こういう種々の必要なもの、特に種々の契約書が、すべて皆目不明という杜撰なところが判明するにつれて、私の母はアホだったのだと思うようになりました。

 母は病人であっても、また数年前の話であっても、安愚楽牧場の被害者であることを周囲にばらして話の種かつ笑い話にされたのは誠に許しがたく私はなぜ言ったのか情けない思いで聞きました。
 すると、母は「一回だけ言っただけで繰り返しは言ってない」 と言いました。でもそれって謝ったことにはなりません。私は妹と違って母には死ねという暴言は吐きません。その代わりに八十才を超えた母に、私の思いを噛んで含めるように伝えました。
 母は「二度と言わない。だから私を責めるのはやめて。頭痛がしてきた」 と言いました。一日の大半をベッド上で寝て過ごす人ですのでこれ以上は怒れない。
 ただ、母は我が身を動かして働いてお金をもらった経験のない人だからこそ、私の被害を世間話の一つとして知人におもしろ半分で話したのだろうと思います。ただ一度話のタネにしただけとはいいますが、母の性格はしつこいのでたぶん何度も言ったはずです。
 私は母が息苦しく、遠方の人と結婚したようなものですが、結局母がらみでこの年になってもまだこんな嫌な目にあうのか、と思いました。
 
 牧場側が破産宣告をした同時期に、どこぞのエライ修道女様が、置かれた場所で咲きなさいという言葉をいいました。本の題名になり、ベストセラーにもなりました。しかし、私はその言葉が大嫌い。どうせなら置かれた場所で爆発したい。羽をはやしてどこかに飛んでいきたい。置かれた場所から逃げたい人だっています。それを安住の地にして、感謝して暮らせとは何をほざく。あきらめが肝心だとなぜ説得できる。人がダメもとであがいてもかまわないでしょう。彼女に限らず宗教家はどこかおめでたいところがあります。諦めることで心穏やかな人生を送れるのは事実。でも、現実に汗水たらして心を傷つけながらも必死に働いている人に向かって、無責任な発言でそれで心が本当に安らぐのかということです。無名人の戯言だと思われてもいいが、宗教家のいう心の持ちようと癒しは正論ではあるがまじめに働く人々への欺瞞でもあると感じています。
 私は仕事と家庭の雑事をこなしつつ、趣味にも時間を費やしたい。それでも母を引き取ったのは、母への思いも感謝もあるから。詐欺の被害者であることを嘲笑されるというみじめな思いをするためではありません。

 私の同居人は、安愚楽牧場被害の話を母に告げたから「自業自得」 だと言いました。最初から黙っていればいい話だと。どっちもどっちもだと。
 それはそうなのですが、私は家庭内の愚痴を話しただけなのに、他人に言ってよいことと悪いことがある。
 知人に向けての笑い話の種に提供されるとわかっていたならば、私だって言いません。知人も悪気があったわけではないことも承知です。ただ私という欲張りが損をしたという話になって笑いものにされた……と思う私の心のありようもまた悪い。
 この事件を起こした詐欺の首謀者たちや、例の経済評論家兼政治家に対しては当然良い感情はありませんが、自己責任もあってか仕方がないという思いもある。また心理的な距離感も非常に遠いので責めることはない。それよりも被害を笑い話にした身近な母を怒る気持ちが大変強いので書いてみました。

(著者注: : 画像の牛は拝借したもので安愚楽牧場の牛ではありません。牛そのものや安愚楽と契約した牧場に罪はありません)


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