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コブのない駱駝と人生の楽屋ーーきたやまおさむ先生の話

2022年1月、最初の「K's TRANSMISSION」(FM NACK5、THE ALFEE坂崎幸之助さんがパーソナリティーを務めるラジオ番組)のゲストはきたやまおさむ先生。きたやまおさむ×坂崎幸之助(幸ちゃーん!)の軽妙なトークが聴ける正月恒例の貴重な時間です。

今回のトークテーマは、きたやま先生の新刊『ハブられても生き残るための深層心理学』(岩波書店)に基づいたものでした。

きたやまおさむ「先生」と呼びたくなってしまうのは、大学を卒業した新社会人のころから著書やラジオを通じて何度も励ましてくれた師だと感じているからです。

「心に決めたら一心不乱に進むべし」と信じ、それでも迷ったりへこたれたりする自分に失望して「醜く続けるよりも美しく去ってしまいたい」と思うことは往々にしてあるけれど、大事なのは「あれも、これも」「どっちつかず」を肯定して生き抜くことではないかと、噛んで含めるように易しい言葉で教えてくれたのを覚えています。

今回の新刊は、きたやま先生がずっと言ってきたその教えがさらに整理され、深められた内容です。

人生の台本を読み直し、創り直すために

具体的には、「人生を劇としてとらえ」、信頼していた人に裏切られたり「みんな」から非難やいじめを受けたりすることがあってもすぐに絶望しないこと、どんな構造で自分がそんな「悲劇の主人公を演じさせられている」のかを把握すること、そしてその役割を「降り」、台本を創り直すことはできないかと考えることが提案されます。

また、表舞台に出ずっぱりではなく素に戻れる「人生の楽屋」を持つこと、そして舞台と楽屋をリズミカルに行ったり来たりする感覚を養うことが重要と勧めています。

「みんなと違う」「間違っている」「ここにいるべきではない」異類が排除される悲劇の構造を理解するのに役立つ知識として、「鶴の恩返し」(「夕鶴」)などの物語が紹介されていました。

【「鶴の恩返し」のあらすじ】
与ひょうが鶴を助けた晩、1人の女性が与ひょうを訪ね、妻にしてほしいという。妻になったその女性(つう)は、「機(はた)を織っているところを決して見ないで」と与ひょうに約束させ、見事な反物を織る。つうの織った反物は高く売れた。急に羽振りがよくなった与ひょうに目をつけた運ずと惣どは、与ひょうと結託してつうにもっと反物を織らせ、金儲けをしようとたくらむ。与ひょうは二人にけしかけられ、もっと反物を織るように頼み、つうは従う。そんなある日、与ひょうは運ずや惣どと共につうとの約束を破り、機を織っている姿を覗き見てしまう。そこには自分の羽をむしりとり機を織る鶴の姿があった。姿を見られた鶴は、もう一緒に入られないと与ひょうのもとを去っていった。

私(つう)はあなた(与ひょう)に言えない秘密(裏)を抱えている。あなたはみんな(運ずや惣ど)と一緒に私の裏を暴き、非難する。この物語には、つう(私)が、通じ合っていたはずの「あなた(第二者)」を、「みんな(第三者)」の働きかけによって奪われるという三角関係があるといいます。

そして、異類であるつうが与ひょうのいる世界で生きていくためには、与ひょうが鶴の理解者としてふるまうことが必要です。だからそんな理解者の存在が人生では重要になってくる。一方で、つう自身が潔く去ってしまわずに「居座る」ことで、与ひょうの行動を変える可能性もあるのだということも認識することが大事だと説かれます。

つうが悲劇を繰り返し演じないためには、つう自身で、新たな台本を作り直す必要があります。例えば、次に助けてくれた人のうちを訪ねるときには女の姿に化けないで鶴の姿のままで行くとか、あるいは女の姿に化けて出かけていくけど、妻にしてくださいといった直後に鶴に戻ってみるとか、さらには、無理に反物を織らずに人間の姿のままで続けられる方法で恩返しを試みるとか。(自分のことだと筋書きを考えるのは難しいけど、つうのことになると簡単に考えられるから面白い)

「楽屋」から出たり入ったりして生きていく

また、これはラジオできたやま先生が言っていたことですが、つうが「鶴だ、鶴だ」と騒ぎ立てられているときに、「実は私も鶴なんです」とささやいてくれる誰かがいることも大切、と。この本でも説かれているとおり、三角関係や裏切りに向き合い人生を乗りこなすには、周囲の助けも得ながら、何度かの練習・失敗を経て徐々に可能になっていくのだと思います。

「実は私も鶴なんです」という打ち明け話をし合えるような「裏」の場所、それが「人生の楽屋」にあたります。表舞台に出ずっぱりでは疲れ果ててしまう。表で頑張る前後には、「楽屋」で準備をしたり化粧を落としたりして素になれる時間をもつこと、そして楽屋と表舞台をリズミカルに行ったり来たりする感覚を養うことを、この本では勧めています。

日々、表で「大人だから」と「当たり前」のことをこなして頑張っている私たちには、こころの楽屋が必要だというこの本の提案は、慰めや甘やかしではなく、現実的な処世術として納得がいきます。表舞台で華々しく散ることとも、楽屋に引きこもることとも違う、「行ったり来たり」を大切にする感覚を養ってこそ、生きていけると思うから。楽屋では泣いてもいいし、愚痴ってもいい。表舞台で笑うため、楽屋を心地よくするため、あるいはその「どっちも」のために、それぞれの場所を生きることができるのだから。

「17歳というのはいつ割れるかもしれないガラスの上を歩いているようなもの」と言ったのは誰だったか忘れてしまったけれど、私もそう思うし、17歳を過ぎたとしてもそういう状態へ戻ってきてしまう時期はきっと誰にでもあるのだと思います。普段は「大人だから」と隠していても、蓋を開ければ子供のように無力な自分がいて、それに失望することもある。それでも少しずつ、生きるための力を私たちは身に付けていくわけです。

「ずっと楽屋でのんびりしていたい(あるいは、ずっと表で輝いていたい)」という子どものような欲求と、「表でやることがある(あるいは、表にすぐ戻るために、裏で回復しなければいけない)」大人としての分別の間で葛藤に揺れ続けるのが自分だけれど、「この本を読んだ人たちは」、幼いころに比べて徐々に欲求を飼いならせるように変わってきているはずだ、そうする力や知識を得ているはずだ、という、温かい激励がこの本には満ちています。

”姉妹本”の紹介

最後に、この本でも触れられている、きたやまおさむ自伝『コブのない駱駝』(岩波書店、2016年)のリンクも貼っておきます。コブのない駱駝として、「お前は駱駝なんかじゃない、お前は馬だ」と嘲笑われながらも、「どっちつかず」を受容して生きる大切さを教えてくれるいい本です。

それでは、また元気にお会いしましょう。

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