世界に一つだけの花から新しい領解文へと辿る共通項

 今回は、オンリーワン観への違和感を記します。浄土真宗本願寺派が発布した、「新しい『領解文』(浄土真宗のみ教え)」(以下、新しい領解文)が内在する危険と、有名な歌を借用し、社会に照らし合わせその危険の傍証を試み記します。
 ある方が、新しい領解文を肯定する意見を、一縷の望みにかけて熱心に探しておられます。もちろん肯定できればそれに越したことはないですが、証明を以て新しい領解文の客観的な肯定は不可能となるのではないでしょうか。


むやみやたらに承認を欲するならば

 題材は次の2本です。

  • 「No.1にならなくてもいい/もともと特別なonly one」 …「世界に一つだけの花」(2002)

  • 「ありのままの姿見せるのよ/ありのままの自分になるの」 …「Let It Go~ありのままで~」(2013)

 大流行した歌ですね、上はジャニーズの金字塔と言っていいでしょう。下は映画界の巨頭ディズニーですね。現在でも人々はこの歌が大好きでよくカラオケでも選択します※1。人々は自己肯定を喉から手が出るほど欲しい、人々は心理学で言う承認を望み、その望みに求められた歌詞でしょう。筆者は、母に怒られる都度、祖母の部屋へ逃げていましたが、現代の核家族ではその逃げ道がありません。承認に飢えた結果、SNSへ承認を求めてしまいます。すると一般のしかも匿名の社会は親よりはるかに厳しいですから、例えば、甘えるななどと跳ね返されたり甘言で騙されたりしてしまいます。“生きづらい”※2という嗚咽が聞こえてきます。
 承認を補完したがるような「自分らしく」という言葉も、根拠なく肯定するような言葉ですね。「自分」というのがそもそもあいまいで定まらないのに、定まらないものを定まっているかのように用いて「らしく」というのは文意が通りません。つまりいくらでも都合よく使えてしまえます。

 念のため断っておきますと、肯定・承認が誤りだと述べるものではありません。

私見による見立て

 筆者はこの肯定に違和感を感じ、うまくいかない、足元の床が抜ける、と考えています。人々は認めたくないことでしょうが、いっそここではっきりさせましょう。

 もし世の全員の独自に考える「もともと」や「ありのまま」をそのまま認めるなら、例えばゾウとアリの綱引きを放置することになるのです。ゾウが軽く綱を引いたとして、アリがいったい何匹引きずられるでしょう。見方の一つとしては、ゾウが富裕民や上級国民や武装集団、アリが貧困民や被災民や非武装集団などですね。
 いつだったか、大企業の社長が料金を値上げさせてほしいとの記者会見の場で、我々にも普通の生活をさせてほしい、というような発言をしました。「普通の生活」を社長が描く比較対象として社長の念頭にあったのは、無論彼らより裕福な生活をする人でしょう。件の社長や同社の社員が実際どんな水準の生活をしているかなぞ到底小生が思い描けるはずもありませんが、危険かつ人々の生活に欠かせないインフラ大企業なので、安い収入ではないでしょう。一般に比べれば十分なはずの収入のある人が、さらなる要求を訴えるのです。
 また今で言えば、歌の自己肯定を認めるなら、このところ毎日のように批判されている岸田首相だって、特別なオンリーワンなのです。であれば、私の権利を主張できるでしょう。その権利が、相対的に巨大なのです。つい最近、首相らの給与アップ法案が国会を通りました。それぞれのオンリーワンを認めるなら、その相対的に巨大な主張も認められねばなりませんがいかがでしょうか。
 あるいはJASRAC、国民注目の裁判がありましたが、昨年著作権料を徴収すると判じられました。これも権利の主張です。小生も過剰な権利意識に見えますがいかがでしょうか。
 これらどこまでが「ありのまま」かは議論の余地があるでしょうが、歌においては主観で解釈し自己を主張するような歌詞なので、主張への反論・反抗は一切認められないと思われます。

 このように、もしあらゆる人の自認のありのままを認めるなら、貧困や暴力にあえぐ自己承認のあやふやな人のみならず、迷惑系だろうが、私人逮捕系だろうが※3、上級国民と呼ばれる人々も含めてその主張が認められることになります。たとえ主張が衝突して、ゾウが黒山となったアリの主張自由権利を無視してズルズル引きずろうが、ありのままという無条件の肯定に対しては、否定は無効力なのです。つまり、これが「自分らしい」と言われれば、どんな横暴でも否定反対反抗できません。これは、言ったもん勝ちやったもん勝ちの構図で、これが既に至るところで具現しているのが今の世の中と考えられます。
 この先は、公より私が先んずることとなり、「お客様は神様です」が現実になり、どんな私の主張でも通ってしまいます。私権による公文書の改ざんでも議事録の秘匿でもいくらでも通ります。国会も裁判も(優秀な人の思惑なぞ小生が知る由もありませんが)討論の意味を失い法規も社会も成り立たなくなり、戦争でも何でもありで社会の崩壊が見えるでしょう。

仏教においては

 この肯定感は無理やり当てはめれば、浄土教でいう法の深信に対応します。ここで、浄土教では、法の深信があれば必ず同時に機の深信が具備するはずですが、「もともと」や「ありのまま」だけでは、肯定しっぱなしで機の深信がありません。歌の他の箇所にも機の深信に相当する言葉はないのです。新しい領解文も同様に、(深信かどうかはともかく)法の深信のみで機の深信がありません※4。
 新しい領解文では「私の煩悩と仏のさとりは本来一つゆえ」なので、さんざん言われているので恐縮ですが、私(機)の事情に無関係に私は救われていることになります。であれば浄土真宗の救いではなく、領解文の救いです。機の良し悪しに依拠しないので、これは人間のわがまま勝手を、教団内でも許すことになり、世間同様に、言ったもん勝ちやったもん勝ちが教団内でも発生することになるでしょう。

 また、仏教上で解釈すれば、私の姿とは煩悩なのです。なので人間が自身で認めるありのままの私とは、煩悩の姿です。煩悩が促す行いは、始め少しの間は快をもたらすこともありますが、続けるとその同じ行いがやがて苦になります。するとありのままを認めることすら苦痛になってしまい、私のありのままとはこんなではない!こんなありのままではないありのままがあるはず!と訳が分からなくなってしまいます。で、再びありのままを認めてくれる自己肯定の言葉等にすがって、こんな私でいいんだ!となります。こんな私とは煩悩なので、……ということで、めでたくエッシャーの無限階段のようなスパイラルの完成です。
 余談ですが、食や性といった快楽に溺れる図式も、承認を無限に欲するこの回廊にその本人が囚われているのだ、と簡単にわかりますね。
 結局、人間が自身で「もともと」や「ありのまま」を認めることは、底なし沼の入口なのです。同じ形態をもつ新しい領解文も、同様といえましょう。

 先日、X(Twitter)にて、やることのうち何を先に処理したらいいか迷ったら、公共(自身以外に関係者がある案件)を優先するんだよ、といった投稿がバズりました。そんなこと言われなくても、ある程度の年齢になれば知られるはずであろうに、70、80を越えた政治屋をはじめそれらを支持する社会や家庭での人生観がひっくり返って個人が好き勝手やっているから、子供は混乱し大人は洗脳された結果、日本人はあたかも未開文明の人々に言うようなことまでわざわざ言われなければわからない国民になりました。
 この新しい領解文では、一層人心の劣化を助長します。近年の世の乱れを是認し、さらにお墨付きを与えるものです。新しい領解文が発布された今年は2023年なので、あたかも10年刻みで異安心が現れたかのようです。個人主義が浸透し始めて長いですが、新しい領解文はさらにそこに宗教的な保証を教団内外に与えかねず、すなわち人生の指針として人々の人生観や信念に訴えることになるので、染みつくと否定されにくくなりましょう。

 まずは本願寺派には、これの一刻も早い撤回を切に、望みます。
 そして人々には、仮の門から早く出ることを、祈ります。


※1 2022年年間「世界に一つだけの花」142位「Let It Go~ありのままで~」240位 www.karatetsu.com/ranking/total/2022
※2 私個人は“生きづらい”という言葉には批判的です。
※3 こう呼ばれるyoutuberが多数湧いているという。卑俗なyoutuberがあるのは、卑俗なバック・視聴者が多数あるからに他なりません。Youtubeを足掛かりに、卑俗な者がゾウになってしまっています。これはGoogleの覇権意識のために、世が卑俗な者に引っ張られていることを意味します。
※4 お西の話は全般に法の深信に偏重しているようです。

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