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『ヨーロッパ全史』用語解説 第1章:エーゲ海の夜明け――ギリシアの栄光

この記事は
『ヨーロッパ全史』 – 2020/4/25
サイモン・ジェンキンス (著), 森夏樹 (翻訳)

の各章に出てくる用語を解説しているページです。

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なお、用語解説本文については、第1章は全文無料、第2章以降は一部有料にてお読み頂けるようになっております。

第1章 エーゲ海の夜明け――ギリシアの栄光

「夜明け前――最初のヨーロッパ人」

【ゼウス】
ギリシア神話に出てくる全知全能の存在で、ローマ神話ではジュピターです。最高神、至上神として位置づけられており、創造的能力と人格的性質を持っていますが、女性にだらしないところがあります。
 
【フェニキアの海岸】
ここでは地名ですが、現代におけるシリアやパレスチナ、レバノンあたりの中東の地中海海岸だと思えばOKです。
 
【エウロペ】
ヨーロッパの語源となった王女様で、ゼウスとの間に子どもを儲けました。ちなみに木星の衛星エウロパの名前の由来にもなっています。
 
【オウィディウス】
生没年BC43年-AD17年。ローマの詩人です。神話伝説上の数々の変身物を取り扱いました。一般にギリシア・ローマ神話の集大成と位置づけられる詩人です。
 
【クレタ島】
ギリシャ共和国南方の地中海、エーゲ海に浮かぶ島です。エーゲ海で最大の島で、古代ミノア文明(ミノス文明、クレタ文明とも呼ばれます)が栄えた土地で、クノッソス宮殿をはじめとする多くの遺跡がある観光名所です。
 
【ミノス王】
ギリシア神話に出てくるクレタ島の王様でクノッソスに都を構え、エーゲ海を支配したと言われています。上述のミノア文明の語源となっています。冥界の審判官の一人でもあるので、エンマ大王様的なポジションでもあります。
実在性については議論が分かれていて、今後の発掘調査などに期待です。
 
【ミノタウロス】
ギリシア神話に登場する牛頭人身の怪物です。ミノス王の妻パーシパエーの子どもなんですが、ミノス王がギリシア神話の神の一人であるポセイドンへの生贄をケチったため、神様からの怒りを買ってしまい、妻パーシパエーと牛の間に子どもができてしまったのです。
成長したミノタウロスは粗暴なふるまいがとまらず、困ったミノス王によって迷宮(ラビュリントス)に閉じ込められます。その迷宮には、食料として9年ごとに7人の少年、7人の少女がアテナイから送られることになっていました。3度目の生贄として、英雄テセウスが自ら志願して迷宮へと侵入すると、激闘の末、ミノタウロスはテセウスによって倒されてしまいます。
 
【ネアンデルタール人】
約4万年前までユーラシア大陸に住んでいた絶滅した旧人類です。気候変動や疫病などによって絶滅したと考えられています。かつては現生人類である我々ホモ・サピエンスの祖先とする説がありましたが、ミトコンドリアDNA解析結果を踏まえて、現在では我々とは別系統の人類とする見方が有力です。その一方で、現生人類のゲノムにネアンデルタール人の遺伝子も数パーセント混入されているとの説もあります。今後の研究に注目ですね。
 
【ラスコー洞窟】
フランスで見つかった先史時代の洞窟壁画のある有名な洞窟。約2万年前にクロマニョン人(現生人類の祖)によって馬、山羊、鹿、人間などが描かれています。1940年に発見されました。現在は非公開となっており、レプリカの洞窟がつくられていて、そちらは一般見学が可能。
 
【ストーンヘンジ】
イギリスにある巨石が並んだ遺跡です。BC2500年からBC2000年の間に立てられたと考えられています。タイミングとしてはエジプトのピラミッドなどと同じくらいの時期です。高さ4~7mほどの石がたくさん並んでいますが、何の目的で作られたものかはわかっていません。
 
【アナトリア】
今のトルコがあるところです。黒海、エーゲ海に囲まれた半島で、後述する「小アジア」と古代は呼ばれたりもしていました。
 
【クルガン人】
紀元前5000年から紀元前2000年くらいにアナトリアにいたとされるインド・ヨーロッパ語族の祖ではないかと考えられている人々。言語・文化の区分を示すために近現代になって作られた用語です。「おれはクルガン人だ!」という自己認知していた人々がいたわけではないです。
 
【インド・ヨーロッパ祖語】
我々日本人からすると、インドとヨーロッパは全然違うもののように感じますが、文法や語彙などに幅広い共通性が見出されています。今は多数の言語に分かれていますが、大元は一緒だったと考えられており、その大元の言葉のことを、インド・ヨーロッパ祖語といいます。だいたい紀元前4000年を中心とした時期のことではないかと推定されています。
 
【ケルト人】
紀元前3000年紀(紀元前3000年~紀元前2001年)からヨーロッパ全体に浸透していった人々で、こちらも言語・文化の区分を示すために近現代になって作られた用語です。
 
【コーカサス】
地域名称ですね。カフカース、カフカスともいいます。黒海とカスピ海にはさまれたコーカサス山脈とそれを取り囲む低地からなっている場所で、面積約44万㎢ですので、日本(38万㎢)よりも広い地域ですね。現在は旧ソ連から独立した国々がひしめきあっています。
 
【ゲルマン人】
ゲルマン人は時代によって指す範囲が違う悩ましい用語ですが、ここでは原始ゲルマン人、古ゲルマン人といわれる先史時代、歴史時代の初めの人々ですね。現在のデンマーク人、スウェーデン人、ノルウェー人、オランダ人、ドイツ人などの祖先です。
 
【肥沃な三日月地帯】
古代オリエント史において多用される歴史的地理概念です。範囲は今のイラクから地中海沿岸のシリア、パレスチナからエジプトへと至る三日月型の地帯を指します。現在は「砂漠!」な印象が強いこの地域ですが、古代においては肥沃な土地が広がっていました。人間による森林破壊などの環境破壊によって砂漠化したというわけです。
 
【ミノア帝国】
ミノア文明とほぼ同義と思ってOKです。紀元前2000年〜紀元前1400年頃にクレタ島を中心に栄えた文明、帝国のこと。民族系統はわかっていませんが、ギリシア最大の島クレタ島を中心に地中海交易の要地として繁栄していました。
 
【サントリーニ島】
エーゲ海にある島です。クレタ島から北に離れている小島ですが、現在は断崖の上に白い壁の家々が密集する景観で知られていて、エーゲ海の著名な観光地の一つです。行ってみたいなぁ。
 
【ミケーネ】
ギリシア本土にある都市名です。クレタ文明(ミノア帝国)以後、古ギリシア時代以前の文明があった都市として有名。後述のアカイア人の手によって作られました。この文明のことをミケーネ文明といい、ミケーネの遺跡には、獅子門、円形墳墓A、王室、アトレウスの墳墓が有名ですが、そのいずれも巨大な切り石を用いた建築となっていて、海洋国家だったミノア文明のものに比べると、これらは何だか重苦しくて非開放的なイカツイ感じです。
 
【アカイア人】
紀元前2000年頃からペロポネソス半島(ギリシアの西側)に定住したとされる古代ギリシアの集団。ギリシア北方から南下してきてミケーネ文明を興しました。


「エーゲ海の夜明けとディアスポラ」

【線文字B】
紀元前1550年から紀元前1200年頃まで、ギリシア本土およびクレタ島で使われていた文字で、古いギリシア語の方言を表記するのに用いられました。この文字によって表されるギリシア語をミケーネ・ギリシャ語と称します。この線文字Bは解読済みですが、線文字Bの親文字・親系統の文字といわれているもので線文字Aというものは未解読です。
 
【ヒッタイト人】
いまのトルコがあるところを中心に紀元前1750年頃ら紀元前1190年頃までに活躍したインド・ヨーロッパ語族の民族です。旧約聖書ではヘテ人ともいわれます。最初に製鉄、鉄をつくる技術をもった集団だと言われています。
 
【小アジア】
いまのトルコがあるところですね。アジアからヨーロッパ側に突き出た感じになっていますが、ここを「小アジア」や「アナトリア半島」と呼びます。ギリシアより先はアジアという認識なんです。
 
【レバント地方】
歴史的な呼称で、地中海東部のシリア、レバノン、イスラエル、パレスチナなどの地域を含んだ場所です。元々はフランス語のルヴァン(太陽が昇る)が語源。
 
【トロイ】
いまのトルコ北西部にあったとされる都市です。以前は神話の中だけの話だと思われていましたが、19世紀後半にシュリーマンが遺跡を発見しました。トロイの木馬の逸話で有名です。2004年にはブラッド・ピッド主演で映画トロイが制作されています。
 
【ホメロス】
古代ギリシアの詩人で、生没年不詳。紀元前8世紀末(BC700年頃)の人物だとされています。実在性については、いまなお議論の分かれるところですが、西洋文学最初期の区品とされる『イーリアス』『オデュッセイア』の作者と考えられています。どちらもトロイア戦争(前述のトロイをめぐる戦争)に関連したお話です。古代ギリシアにおいては、ギリシア神話と同様に『イーリアス』『オデュッセイア』は、教養ある市民が必ず知っているべき知識のひとつとされていて、今でも欧米の教育では古典の授業で取り扱われています。
 
【暗黒時代】
古代ギリシアにおける紀元前1200年から紀元前700年頃までの間における「文字資料が乏しい」時代のことを指します。ミケーネ文化以後、前古典期(アーカイック期)の間にあたります。
 
【ドーリア人】
後述のイオニア人と並んで古代ギリシアを構成した集団の一つです。紀元前1100年頃にギリシアに侵入して、スパルタなどの都市を建設しました。
 
【イオニア人】
紀元前2000年頃からバルカン半島にやってきて、ギリシア中部やアナトリア半島北西部に定住したとされる先述したアカイア人の一部です。イオニア人が建設した代表的な都市はアテネ(アテナイ)です。
 
【ポリス(都市国家)】
古代ギリシア語で一般に都市や都市国家(非ギリシア人のものも含めて)を指す言葉です。歴史用語としては、紀元前8世紀(紀元前700年代)頃に成立して紀元前5世紀(紀元前400年代)を頂点として繁栄したギリシア人の特有な都市国家を意味しています。特徴としては色々ありますが、アテネでは直接民主制が採用されていました。
 
【それは女性や奴隷や外国人を社会の構成員として認めない】
上述のとおり、ポリスでは直接民主制がとられていたのですが、それはあくまでも男子自由民だけでした。女性や奴隷(使用人という意味合いも含まれます。必ずしも悲惨な暮らしをしていた人たちばかりではないことに注意!)や外国人は社会の構成員として認められていなかったため、発言権がありませんでした。多様性を認めない社会だったのです。よく、ポリス時代の古代ギリシアの直接民主制が民主主義の原点だと言われますが、それはそのとおりですが、だからといって原点回帰しちゃうと多様性を認めない社会になってしまうので、きちんと理解しておくことが重要ですね。
 
【フェニキア人】
フェニキア人は、エジプトやバビロニア(いまのイラクあたり)などの古代国家の狭間にあたる地域に居住していた人々。紀元前15世紀頃から独自の都市国家を形成していき、紀元前12世紀頃から盛んに海上交易をするようになりました。海上交易を始めると、内陸部から北アフリカからイベリア半島までの沿岸部へと進出、地中海全域を舞台に活躍します。フェニキア人の手によって文字(アルファベットの原型)などの古代オリエントで生まれた優れた文明が地中海世界全域に伝わることになったのです。ちなみにフェニキア人という呼称は、自称ではなく、ギリシア人からの呼び名で、その後歴史用語として現代においても使われるようになりました。
 
【カルタゴ】
フェニキア人の手によって紀元前9世紀に地中海沿岸の北アフリカに建設された都市です。古代地中海貿易の中心として繁栄しました。現在のチュニジアあたりです。イタリア、シチリア島の向かい側ですね。地中海の覇権をかけて、のちのちローマと争い、そして敗れて滅んでしまいました。
 
【アフロディテ、アルテミス、ヘルメス、ポセイドン、イアソン、ヘラクレス、テセウスなどの神話】
それぞれギリシア神話の神々だったり英雄だったりですね。
アフロディテ(英語ではヴィーナス)、美の神様。ボッティチェリの「ヴィーナスの誕生」などで描かれています。
アルテミス(英語ではダイアナ)は狩りやお産の女神、月の神様でもあります。
ヘルメス(英語ではマーキュリー)、富と幸運の神様、旅行者などの守護神でもあり、高級ブランドのエルメスの語源にもなっていますね。
ポセイドン、海と地震を司る神で日本でも知名度高いんじゃないでしょうか。最高神ゼウスの次にパワフルな存在として位置づけられています。
イアソンはギリシア神話に登場する英雄で、系図的にはポセイドンの孫ですがこのあたりから神様ではなくて半分人間である半神半人。
ヘラクレスも半神半人の英雄で、ギリシア神話の中でもヘラクレスの話は多くあり、彼にちなむ話は別だしで「ヘラクレス神話」ともいわれます。
テセウスもギリシア神話の英雄で、クレタ島の迷宮でミノタウロス退治をしたり女族アマゾネスの国の征服をしたりと冒険譚の多い人物です。「テセウスの船」という寓話、パラドックスでも有名です。ある船があったとして、船の各パーツを最初は帆柱を取り換えて、その後、縁を取り換えてという風に最終的には全部置き換えたとしたら、過去の「船」と現在の「船」は同じものといえるのかどうかということを指します。
 
【ヘロドトス】
生没年不詳ですが、BC490-480年くらいと言われていて、60歳前後で亡くなったと言われる人物です。古代ギリシアの歴史家で、歴史の概念の成立過程に大きな影響を残し、『歴史』というそのままズバリのタイトルの本を残しています。完本として現存している古典古代歴史書の中では最古のものです。
『歴史』のカバー範囲は、ギリシアのみならず、バビロニア、エジプト、アナトリア、クリミア、ペルシア(今のイランあたり)までと非常に広く、古代史研究における基本史料の一つとなっています。書物とヘロドトスの人名自体は非常に知名度高いんですが、彼個人の人生についてはあまり記録が残っていません。


「ペルシア戦争とアテネの台頭」

【コリント】
別名コリントスとも。ギリシアのペロポネソス半島(ギリシアの西側の入り組んでいるところ)の港湾都市。紀元前9世紀ごろにドーリア人によって建設され古代ギリシア時代からギリシアの主要都市とし存在しました。
 
【スパルタ】
こちらもギリシアのペロポネソス半島にある都市で、紀元前10世紀頃にミケーネ時代の先住民アカイア人を征服したドーリア人によって建設されたと言われています。先住民アカイア人を奴隷として、支配する必要もあってか、支配者層は厳しい訓練が課せられていました。その結果、古代ギリシア世界で最強の重装歩兵軍を持ち、後世に「スパルタ教育」という言葉の語源となりました。
 
【アテネ(アテナイ)】
現在もギリシャ共和国の首都として存在する古代ギリシア時代からの都市です。こちらは上二つのコリント、スパルタと違ってドーリア人の征服を免れました。コリント・スパルタよりも東よりの位置にあります。アテネの成立はとても古く紀元前2000年頃と推定されています。アカイア人の分派であるイオニア人によって定住・建設されました。
 
【王制は貴族制、寡頭制、独裁制へと移行していった】
こちら、スパルタは2人の世襲の王様が並立している王制でした。ただ王制とはいえ、その権限は戦時における軍の指揮権などに限定されていたようです。基本的にこの文章においては、アテネでの政治体制の変遷だと思って読んでください。
 
【ドラコンの法】
紀元前621年に定められた掟、ドラコンの立法ともいいます。ポイントは「成文化」ですね。それまで慣習とかで運営されていたものを、しっかりと明文化したというところに意味があります。おれによって貴族による恣意的な法解釈の幅を制限することができ、平民の利益を前進させる礎となりました。
ただ、ドラコンの法はかなり厳しく、文中にもあるように「血で書かれた」といわれるほどの内容で、小さな罪でも死刑になるような内容もあり、後のソロンの改革で規定の見直し、修正が施されました。
 
【アルコン(執政官)】
古代ギリシアのポリス(都市国家)で貴族の中から選ばれて王様の代わりに最高権力を握った機関、役職のことです。定員9人で任期が1年ということで、現代の大統領とかとは違って9人いるっていうところが面白いですね。とはいえ、9人の中には「筆頭アルコン(アルコン・エポニュオス)」という人がいます。
 
【ソロンの改革】
紀元前594年、593年頃にアテネの政治家ソロンによる改革。貴族と平民の対立が激しくなっていたアテネにおいて、ソロンは「債務の帳消し」「債務奴隷の禁止」「財産ごとの権利・義務の定め作成」「民衆裁判の設置」「400人評議会の設置(4部族からそれぞれ100人選出される議会)」などを実行しました。これにより、貴族の権限や財力が制限され、各財産保有レイヤーに権力が分散されることになり、アテネの民主化が進みました。
 
【クレイステネス】
生没年不詳。紀元前6世紀後半~紀元前5世紀前半くらい。アテネの名門貴族の出身で古代アテネの民主主義政治家です。ドラコンの法、ソロンの改革と進んだアテネの民主化ですが、その後僭主政とよばれる独裁政治になってしまいました。この独裁政治をやっていた人らを紀元前510年に追放、クレイステネスは紀元前508年にアルコンとなって、「クレイステネスの改革」を断行して、独裁者が出現しないように制度設計しました。
 
【陶片追放(オストラシズム)】
上述のクレイステネスの改革の最重要なもので、「こいつは独裁者になりそうだ」という人物を投票して、投票数が6000に達した人物をアテネから10年間追放するといったもの。投票を陶片(陶器のかけら、オストラコン)に記名しておこなうことから、オストラシズムと言われます。ポイントは何点かありますが、まずアテネでは一般ピーポーも文字が書けたということが分かります。だって追放したい人物の名前を書くわけですからね。そして、次に結局このオストラシズムでは「逆人気投票」というか、「あいつ気に入らない」的な感じでも票が集まってしまいます。実際にオストラシズムで追放された実例は12例ありますが、ペルシア戦争の英雄が追放されるなど、色々と物議を醸すものです。なので、現代においてはこのオストラシズムを採用する国家はないって感じですね。
 
【民会(エクレシア)】
市民総会です。直接民主主義として、アテネでは市民全員(といっても男性のみ、奴隷や女性は市民扱いされていなかった)が集まって、重要事項について決議しました。いうなれば、アテネ市民全員がアテネという国家の株券をもった株主だったって感じですかね。日常の運営についてはアルコンに任せるわけですが、重要なことはこの民会で決められるようになりました。
 
【ペルシア】
現在のイランを中心に古代世界で、イラン、イラク、エジプト、シリア、イスラエル、パレスチナ、トルコなどオリエント世界を支配した大帝国、アケメネス朝ペルシアのことをこの文章では指しています。とにかく古代における超大国と思っておいていただければOK。
 
【キュロス大王】
生没年BC600年頃-BC529年。上述のアケメネス朝ペルシアの初代国王です。古代エジプト以外の古代オリエント諸国を統一しました。現代のイラン人はキュロス大王をイランの建国者と位置づけています。
 
【ダレイオス王】
生没年BC522年-BC486年。こちらもアケメネス朝ペルシアの王様で、古代エジプトも征服しました。東はイランからインダス川流域に達するなど、古代ペルシアの最盛期を現出した人です。
現代においては、彼が残したベヒストゥン碑文に、複数の言語で自身の功績を記録しておいてくれたおかげで、楔形文字や古代ペルシア語解読に成功しました。
  
【マラトンの戦い】
知名度抜群の戦いですね。マラソン競技の元となった逸話がある戦いです。BC490年にマラトンという場所で、海を越えてやってきたペルシア軍と古代ギリシア軍(アテネなどの連合軍)が激突し、古代ギリシア軍が勝利しました。勝利の一報を一刻も早く届けようと一人の兵士が完全武装のままマラトンの戦場からアテネまで駆け抜けて「我ら勝てり(良い知らせ、エヴァンゲリオン)」を伝えて絶命したと言われています(後世の創作説あり)。
 
【サラミスの海戦】
BC480年に起きた、ペルシア艦隊とギリシア艦隊(主力はアテネ)による海戦です。この海戦でギリシア艦隊が勝利したため、アテネがギリシア世界をペルシアから守ったということになり、ギリシア世界における盟主の地位を確立します。
また、それまでのアテネの民会では、戦争に参加する命と身体を張っているお金持ち(重装歩兵として戦争に参加するためには武器とか防具を自分で用意する必要がある)の声が強かったんです。それが、このサラミスの海戦で、アテネの無産階級の人々も船の漕ぎ手として参戦したため、この後無産階級の民会での発言権が強くなっていきました。
 
【テミストクレス】
生年BC524-520年頃、没年BC459年-455年頃。アテネの政治家・軍人です。アテネの筆頭アルコンを務め、アテネを古代ギリシア随一の海軍国に成長させ、サラミスの海戦への勝利へと繋げました。しかし、ペルシア戦争(ペルシアによる一連のギリシア侵攻)での功績を誇って、必要以上に名誉と権力を欲して、民衆からの信用を失い、陶片追放されました。


「アテネの黄金時代」

【デロス同盟】
サラミスの海戦後のBC477年にアテネを中心に結ばれたギリシア諸都市による同盟。対ペルシアのための同盟で、加盟都市数は約300とも200とも推定されています。同盟本部が当初、デロス島に置かれたことからデロス同盟と呼ばれています。同盟基金、財政をアテネが完全に掌握していたことから同盟という名称ではあるものの、事実上はアテネによる諸都市支配体制でした。
 
【ペリクレス】
生没年BC495?~BC429年。古代アテネの政治家、軍事指導者。古代ギリシア時代のアテネ最盛期を築いた人物です。後述のペロポネソス戦争を指導中に疫病にかかって死去してしまいます。演説の名手としても有名で、欧米の政治家は必ずといっていいほどペリクレスの演説を学びます。特に有名なのが、
戦没者葬送演説です。この演説の中で、アテネの民主政とは何かについて語っており、現代においても非常に胸打つ内容になっています。

<以下、引用>
われらの政体は(略)少数者の独占を排し多数者の公平を守ることを旨として、民主政治と呼ばれる。
わが国においては、個人間に紛争が生ずれば、法律の定めによってすべての人に平等な発言が認められる。
だが一個人が才能の秀でていることが世にわかれば(略)その人の能力に応じて、公けの高い地位を授けられる。
またたとえ貧窮に身を起そうとも、ポリスに益をなす力をもつ人ならば、貧しさゆえに道をとざされることはない。
われらはあくまでも自由に公けにつくす道をもち、また日々互いに猜疑の眼を恐れることなく自由な生活を享受している。
よし隣人が己れの楽しみを求めても、これを怒ったり、あるいは実害なしとはいえ不快を催すような冷視を浴せることはない。
<引用終わり>

トゥキディデス『戦史』上 久保正彰訳 岩波文庫 p.226

もし興味があれば、以下URLに抄訳がありますので、読んでみてください。
https://kotobank.jp/word/%E3%83%9A%E3%83%AA%E3%82%AF%E3%83%AC%E3%82%B9%E3%81%AE%E6%88%A6%E6%B2%A1%E8%80%85%E8%91%AC%E9%80%81%E6%BC%94%E8%AA%AC%28%E6%8A%84%29-1614572
 
【アゴラ(公共広場)】
古代ギリシアのポリス(都市国家)における重要な公共空間。ここでは人が集まることから政治だけでなく商取引もおこなわれました。
 
【ディオニュソス劇場】
アテネにあった大型野外劇場で、BC325年に石造りでつくられました。14,000人から17,000人の観客が収容可能だったと言われます。
 
【トゥキュディデス】
生没年BC460年頃-BC395年。古代アテネの歴史家です。『戦史』という歴史初を残しました。ここでは後述するペロポネソス戦争について書かれていて、上述のペリクレスの演説などを現代へと伝えてくれています。
「トゥキュディデスの罠」という現代政治でも使われる用語があるのですが、従来の覇権国家と台頭する新興国家が戦争不可避な状態となってしまう現象のことを指します。これはトゥキュディデスが『戦史』で記録したペロポネソス戦争が覇権国アテネと新興国スパルタの緊張関係は古代ギリシア特有の問題ではないとして、一般化されて使われています。
たとえば、2015年にオバマ大統領が米中首脳会談において、習近平国家主席に対して「トゥキュディデスの罠に陥らないように(一線を越えてしまった場合はもはや後戻りをすることは困難になるよ)」と牽制の意味合いで使われました。
 
【ヒポクラテス】
生没年BC460年頃-BC370年頃。古代ギリシアの医者で、医学を原始的な迷信や呪術から切り離して科学に変えていった人物です。そのため、ヒポクラテスは「医学の父」、「医聖」、「疫学の祖」などと呼ばれています。
  
【ソクラテス】
生没年BC470年頃-BC399年頃。アテネ出身の古代ギリシアの哲学者です。西洋哲学の基礎を築いた人物として、欧米では必修的に学ばされる古典の人物。彼自身の言葉として有名なのは「無知の知」です。彼自身は自分が何かを知っているわけではなく、知恵を生み出していくためのいわば「産婆」のような存在であるとしています。そのためか、彼自身は著作を残さず、弟子たちが「ソクラテス先生はこんなことを言っていたんだ」と記録を残してくれて今に伝わっています。
最期は、アテネの若者を惑わした罪で有罪判決を受けて、弟子たちが「逃げてください」と懇願するもソクラテスは「自分がやったことは間違いではないが、アテネ市民としてアテネの法(ルール)には従わねばならない。」と言って、拒否。ドクニンジンの杯をあおって従容として死を受け入れました。
この顛末は後述のプラトンによる『ソクラテスの弁明』『クリトン』『パイドン』に詳しく書かれています。
 
【プラトン】
生没年BC427-BC347年。古代ギリシアの哲学者です。ソクラテスの弟子で、後述のアリストテレスの師匠です。プラトンの思想が使用哲学の主要な源流として位置づけられていて、19世紀後半から20世紀前半の哲学者ホワイトヘッドは「西洋哲学の歴史とはプラトンへの膨大な注釈である」という趣旨のことを述べています。
それだけ多大な影響を与えた哲学者ですが、彼は青年期にはアテネを代表するレスラーとしても活躍しました。文武両道だったんですね。
ちなみにプラトニック・ラブの語源となりました。「プラトニック=プラトン的な」の元々の意味としては、プラトンが『饗宴』という書物の中で、「肉体(外見)に惹かれる愛よりも精神に惹かれる愛の方が優れており、更に優れているのは、特定の1人を愛すること(囚われた愛)よりも、美のイデアを愛することである」と説いたところがありました。「純潔」とか「純情」という意味合いは特になく、男色者だったプラトンはむしろしっかりとやることはやっていました。後に、プラトニック・ラブは「肉体的な欲求を離れた、精神的恋愛」や「好き合った男女同士でも結婚までは純潔を保つべき」なんて意味合いが込められるようになっていきました。
 
【アリストテレス】
生没年BC384年-BC322年。古代ギリシアの哲学者で、プラトンの弟子です。ソクラテス、プラトン、アリストレスの三人をまとめて古代ギリシア哲学の祖に位置づけられています。
古代ギリシアでは、哲学を現代の狭い領域に捉えず「知的探究活動全般」としていたので、アリストテレスは倫理学だけでなく、自然科学をはじめとした学問を体系立てていき、特に動物に関する体系的な研究もおこないました。そのため、アリストテレスのことを「万学の祖」とまで言ったりします。
アリストテレスが残した様々な著作は、西欧社会では混乱の中で一時失われてしまいますが、イスラム世界で保存され、そこから逆輸入といった形で西欧社会に戻っていきました。
また、マケドニアのアレクサンドロス大王(後述します)の家庭教師も務めた点もおさえておくポイントかなと。
 
【アテナイの学堂】
絵画のタイトルです。多分ご覧になったことあると思うので、Web検索してみてください。イタリアのルネサンス期にラファエロが描いた作品です。1509年から1510年の間に制作されたと見られています。バチカンに今も現存しています。


「ペロポネソス戦争」

【ペロポネソス戦争】
BC431-404年の間に起きていた古代ギリシアにおける戦争。海軍国アテネを中心とするデロス同盟と陸軍国スパルタを中心とするペロポネソス同盟との間で起きました。古代ギリシア世界全域を巻き込んだ大戦争で、この戦いでスパルタが勝利をしました。それまで覇権を握っていたアテネが没落し、スパルタが台頭しますが、その後ギリシアの他のポリスであるコリントやテーベも台頭してしまい、ギリシア世界は分裂の様相を呈してしまいました。その後古代ギリシアのポリス社会は力を失っていき、ギリシア世界の外側と見ていた北方のマケドニア(後述)がギリシアを制圧することになりました。
内側で揉めて、わちゃわちゃすると、外側から敵がやってきて負けちゃうという好例ですね。
 
【ポピュリズムと衆愚政治】
「三人寄らば文殊の知恵」となるか「船頭多くして船山に上る」となるか。民衆の受けを狙った政治をしてしまうと、短期的で表面的な人気取り政策になってしまい、中長期的には悪影響の出る決断が繰り返されてしまうことがあります。大衆の人気がないといけないですが、人気取りばっかりしていると大変なことになる。さてさて現代日本はいったいどこへ向かうのでしょうね。


 「アレクサンドロスの時代」

【マケドニア王国】
紀元前7世紀に古代ギリシア人によって建国された歴史上の国家です。現在のギリシャ共和国と北マケドニア共和国のまたがる領域にありました。ちなみに現代において、北マケドニアは当初「マケドニア共和国」と称していましたが、それにギリシャが反発して国際問題となっていましたが、マケドニアが「北マケドニア」と国名変更したことで落ち着きました。日本人からするとイマイチイメージつかないかもしれませんが、八王子とか多摩地区が独立して「東京国」と称したとしたら、東京23区から「いやいやお前が何東京、全体を称しているんだよ!」と突っ込みが入って「西東京国」に名称変更しましたというとイメージわきますかね?東京の地理がよく分からないという方には、栃木県・埼玉県・群馬県が独立して「関東共和国」と称して、突っ込みがはいって「北関東共和国」と名称変更したということです。これで分かりますかね。脇道にそれた話が長くなって恐縮です。
 
【フィリッポス】
生没年BC382年-BC336年。マケドニア王国の王様です。フィリッポス2世とも言われます。それまでギリシアの辺境にあった弱小国マケドニアに国政改革を施し、強国へと成長させます。強力な軍隊の力でギリシア南部を支配下・勢力下におさめることに成功しました。その後、ペルシア遠征を企画しますが、暗殺されて生涯を閉じます。
 
【アレクサンドロス】
生没年BC356年-BC323年。上述のフィリッポスの息子として生まれ、家庭教師にアリストテレスを迎えるなど、かなりの高等教育を施されます。父が非業の死を遂げると王位を継承し、亡き父の野望も受け継ぎます。世界史上でも類まれな軍事的才能に恵まれ、小アジアから中近東、エジプトまで支配下に収め、超大国ペルシアを征服します。インドまで攻め込み勝利を得ましたが、そこで里心のついた兵士たちに説得されて遠征を切り上げて帰路につきます。途中の現イラクあたりにあったバビロンで熱病にかかりあえなく32歳の若さで死去。彼の死後、広大な領土を誰が継承するのかで激しい内戦が起きてしまいます。長生きって大事。ちなみにエジプトの地中海沿岸の港湾都市アレキサンドリアはアレクサンドロスが建設したものです。
 
【イッソスの戦い】
BC333年11月5日に起きたアケメネス朝ペルシアとアレクサンドロス率いるマケドニア・ギリシア連合軍の対決。場所は現トルコのアナトリア半島から中東への付け根あたりです。アレクサンドロスがペルシアの領内に攻め込んだわけですね。アレクサンドロス側は4万に満たない兵力に対して、ペルシア側は少なくとも10万以上と推測される圧倒的優勢を誇っていました。アレクサンドロスは騎馬兵力を中心とした機動力を発揮して、ペルシアを撃破しました。
 
【ダレイオス三世】
生没年BC380?-330年。アケメネス朝ペルシアの最後の王様。アレクサンドロスにめためたにやられてしまいます。イッソスの戦いで敗れたあともガウガメラの戦いでも敗れ、首都を放棄して逃亡しますが、バクトリア総督に裏切られて殺害されて生涯を終えました。
 
【バクトリア】
古代における地域名称です。中央アジアで、現在のイラン北東部、アフガニスタン、タジキスタン、ウズベキスタン及びトクメニスタンの一部にあたる領域です。ギリシアからみたらだいぶアジアの奥って感じの場所ですね。
 
【ロクサネ】
生年はっきりせず、BC343年より前、没年もBC310年頃。上述のバクトリアの王女様で、アレクサンドロスが最初に結婚した女性です。アレクサンドロスとの間に男子を生みましたが、アレクサンドロス死後の後継者争いの中で息子ともども殺されてしまいました。
 
【プトレマイオス】
生没年BC367-BC282年。アレクサンドロスの部下で、アレクサンドロスの死後、その後継者として他の将軍たちと争い、最終的にエジプトを領土として確保しました。アレクサンドリアを拠点とし、アレクサンドリア図書館の建設や、世界7不思議の一つに数えられるアレクサンドリアの大灯台の建設もおこないました。一生懸命、学問の保護とかをして、ユークリッド幾何学で有名なユークリッド(ギリシア読みだとエウクレイデス)に「楽に勉強できるようになれないものか?」と尋ねて「学問に王道(楽な道)なし」と返答されるという逸話を残しました。
 
【クレオパトラ】
生没年 BC69年~BC30年。絶世の美女として有名ですね。有名なクレオパトラ以外にもエジプトの女王としてクレオパトラがいるので、正確には「クレオパトラ7世」です。よくオリエンタルなイメージ、アジア的なイメージで描かれますが、このエジプト王朝は、ギリシア人による征服王朝なので、どちらかといえばギリシア、西欧的な顔立ちをしていたものと想像されます。彼女の死をもってエジプト王朝は滅亡し、古代エジプトのファラオの歴史が終わることになります。
ちなみにクフ王のピラミッド(あの三つ連なっている一番有名なエジプトのピラミッドの最大のもの)が作られたのは、BC2550年頃と言われているので、クレオパトラからみるとクフ王のピラミッドはだいたい2500年前の出来事。クレオパトラから見た現代が2050年後なので、クレオパトラからはピラミッドよりも現代の方が近いんです。これ豆知識です。
 
【ヘレニズム文明】
ギリシア主義のことを指します。語源はギリシア人の神話的祖先である「ヘレーン」です。アレクサンドロスの東方遠征によって、古代オリエントをギリシア文化が取り込みつつ、融合した「ギリシア風文明・文化」のことをさします。文化や芸術様式やコスモポリタニズムな国際主義的な要素も含む単語です。ヨーロッパ文明の源流には大きく二つの流れがあり、その一つがこのヘレニズムです。もう一つは「ヘブライジム」といってこちらは、ユダヤ・キリスト教の流れを指しています。

次章⇒『ヨーロッパ全史』用語解説 第2章:ローマの支配


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