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#0153【趣味を糸口に(大久保利通、明治維新の三傑)】

1日1分歴史小話メールマガジン発行人の李です。
明治維新の三傑特集、最後は大久保利通です。

大久保利通は前回の西郷隆盛の幼馴染でした。
若い頃から秀才の誉れ高い人物ですが、彼は勉強ができるだけでなく処世術にも長けていました。

薩摩藩は西郷が尊敬した島津斉彬が急死したあと、斉彬の異母弟である島津久光の息子が藩主となります。

島津久光は「国父」として実権を握ります。

人物として斉彬よりも劣る久光を西郷は嫌います。そして、久光も西郷を何度も島流しにします。

久光も大人気ない態度ですが、自分が兄よりも劣っているとの自覚・コンプレックスがあるからこそ、それを真っ向から態度に出して接してくる西郷が許せなかったのでしょう。

この二人の関係は心理学の観点から分析すると、とても面白いと考えています。

西郷の幼馴染である大久保利通も島津斉彬を尊敬していました。彼は久光にどう接したのか。

武器はなんと「囲碁」です。

久光は囲碁がとても好きでした。利通は久光の囲碁仲間に加わり、薩摩藩での地位を確保します。

もともと囲碁に興味はあったようですが、上司の趣味に合わせて、自分もそれに合わせて行動する。

サラリーマンの鑑というか。当然こういったゴマすり的な行為を嫌う同僚もいました。しかし、利通も自分の目的のために手段を選びませんでした。

「今、薩摩藩の実権を握っているのは間違いなく久光である。斉彬が死んでしまった以上その久光と良好な関係を取る他あるまい」

利通の気持ちを代弁するとこんな感じでしょうか。現実主義者な姿が見えてきます。

幕府打倒の際にもそれなりの活躍をしますが、利通は1868年明治政府成立以降に辣腕を振るいます。

1871年に西郷隆盛が明治政府の役職を離れると、薩摩藩のリーダー格となり、1873年に内務卿(当時の総理大臣格に相当)として、内政を切り盛りし、近代化への改革を進めていきます。

その改革の中には武士の既得権益を奪うものが多くありました。

それらに反発した武士の反乱が相次ぎます。最大のものが西郷隆盛が1877年に起こした西南戦争でしたが、これも同年内に鎮圧し、以降日本国内は鎮静化していきます。

1878年(明治11年)5月14日の朝、利通は語ります。

「ようやく戦乱も収まって平和になった。維新の精神を貫徹するには30年の時期が要る。明治元年から10年までの第一期は戦乱が多く創業の時期。明治11年から20年までの第二期は内治を整え、民産を興す即ち建設の時期で、私はこの時まで内務の職に尽くしたい。明治21年から30年までの第三期は後進に譲り、発展を待つ時期だ」

その同日、内務省に向かう途中の紀尾井坂にて馬車が襲撃され、改革への不満分子によって殺害されました(紀尾井坂の変)。享年満47歳没。

維新の三傑は、みな40代で動乱の創業期にその役目を終えて時代は先へと進みます。

ちなみに麻生太郎元首相は、大久保利通の玄孫(孫の孫)にあたります。
(麻生太郎の祖父吉田茂の妻の父は、大久保利通の次男。)

以上、今週の歴史小話でした!

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