#0043【岐阜の由来(日本、16世紀後半)】

1日1分歴史小話メールマガジン発行人の李です。

今週は東海地方特集をしたいと思います。月曜日に岐阜、水曜日に静岡、金曜日に木曽三川を取り上げます。

ご存知の方も多いと思いますが、「岐阜」の名付け親は織田信長です。

尾張(現愛知県西部)から美濃(現岐阜県南部)に攻め込んだ信長は、美濃の首府だった稲葉山城と城下町井ノ口を手に入れます。

長良川が脇に流れる交通の要衝でもあり、京都への上洛を目論んでいた信長は、尾張からこの井ノ口に移転します。家臣たちとその家族も引き連れての移転です。

信長は次々と拠点を変えたことで有名ですが、その際には家臣本人だけでなく、その家族たちも必ず一緒に来るように命じます。

これは「人質」としての意味もあったと思いますが、#0007【織田信長】で紹介したヒューマンな一面を考えると「単身赴任なんてダメだ。家族と一緒にいなさい。」という考えがあったと指摘する人もいます。

もちろん、前線などの危険地を任された部下たちは単身赴任を余儀なくされますが。

さて、井ノ口に移転した信長は、天下統一に向けての活動を本格化する意思を対外的に公表しようと考えました。まず、自分の印章を「天下布武」と定めます。「天下に武を布(し)く」と読みます。

さらに本拠地とした井ノ口の名前を「岐阜」に改めました。もちろん、これも天下統一への意思を込めた改名です。

古代中国の王朝である「周」の国は「岐山(ぎざん)」から興りました。そこにちなんだ命名です。「山」の部分を小高い丘を意味する「阜」に変更して「岐阜」としました。

信長以前は地名変更は行われず、むしろ土着した地名を自分の「氏」として利用していました。源氏が「足利」や「新田」の地名を名乗ったり、荘園の島津荘を管理していた一族が「島津」と名乗ったりします。

これが信長の「岐阜」改名以降は、全国各地で地名変更がなされていきます。家康によって曳馬野は「浜松」となり、秀吉によって今浜は「長浜」に改名されたのです。信長が新しいスタンダードを作ったと言えます。

さて、当時日本は六十六か国に分かれていました。岐阜改名時点での信長は、尾張国と美濃国の二か国しか領有していません。大言壮語と思われた天下統一の意思表明ですが、その後大躍進を遂げ、日本の中央部を信長は、完全に掌握しました。しかし、天下統一を目前に控えたところで「本能寺の変」で49年の生涯を閉じます。

信長の名付けた「岐阜」は徳川幕府の時代から明治維新後の廃藩置県を経て、平成の現在でも県名、県庁所在地として残っています。

以上、本日の歴史小話でした!

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発行人:李東潤(りとんゆん)

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https://note.mu/1minute_history/m/m814f305c3ae2

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