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しゃーしゃ

いけしゃあしゃあと、よく言うわ、私。
私はいつだって自分のことを棚に上げて、棚に挟んで、棚の裏に落として取れなくなって忘れてしまって。
いつもと違う行動をすれば忘れないって聞いたことがある。
例えば鍵をちゃんと閉めたか思い出せないことがあるのは、毎日する行動だから印象に残らずに忘れてしまう場面であると。
だから鍵を閉めた後に手を叩くとか、特別なことをすれば忘れないと。
(もちろん毎日それをしては意味がない)
だから、反省したらその都度頭殴るとか手首捻るとかすればいいのだろうか。
もう忘れたくない。こんなにも人を傷つけていることを。

シーシャは2回目だった。
焼肉をご馳走してくれたからお礼にお茶でも、と言ったら、あなたはじゃあビリヤード奢ってと言って、中野のビリヤード屋に行ったんだけどもう閉まってて、じゃあ帰ろうかと、駅に向かう途中に灰皿を見つけたから煙草吸うために立ち止まったら、「シーシャ行きたい」とあなたが言い出して、あなたの背後にちょうど「シーシャ」の看板が目に入りその店に入った。

居心地のいい店で美術の話をして、なんだか次の作品へのヒントも貰えたりして、「授業料下さい。200万」なんて冗談も言われつ言いつで閉店まで和んで、その夜はループ二人乗りしてあなたの部屋に帰った。

恋愛とセックスは別物だ。
言い聞かせたわけではなく、本当にもう恋愛感情はあなたにはなかった。
だから他の女の人がいることにもやきもち妬かなかったり、
ただ快楽に身を任せただけだった。

体の快楽は健康を取り戻すために必要だった。
そんなことを堂々と言えるくらいには、本当にもう恋愛と性行為は別物として捉えることができる。

あなたは去年「その時目の前にいる人を大事にする」と言っていたけれど、
もう「大事にさえする必要がない」フェーズに行っていた。
「その時目の前にいる人といる自分を大事にする」フェーズ。
だから私の願望はあなたが受け入れられる範疇でだけ叶えられ、嫌なものははっきりと拒絶した。
それが寂しかったのは恋愛感情があった頃まで。
今はじゃあ、大丈夫ですと受け入れられる、とても健全だと思う。

本当は、逆なのだろう。
愛する人にこそ、その人の気持ちを受け入れる、例え自分の願望が叶えられなくとも。
もっと言うと、愛する人でなくとも、その人の心はその人の自由なのだから、尊重することは当たり前だ。
それを、こんなにも遠回りしなくては分からない私は本当に何かが不足していて、長い時間をかけて少しずつ埋めて行っている気がする。

どんな関係性でもいい。
こうした灯火が消えそうな夜に、シーシャを吸って美術の話ができたこと、風を切って一緒にループに乗ったこと、セックス。その行為がそこにあったことだけが全てだった。

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