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芸術的なセンスを科学的じゃないからと信用しないのはナンセンスかもしれない

科学に携わると客観性を重要視しがちになる。
自分の思い込みをなるべく捨て、起きている事実のみに着目し、想像よりも考察を優先する。定量的な指標に従って比較し、差の有無を統計学的に示すことで根拠づける。そしてデータを積み上げ、実証していくことで成り立つのが科学である。この過程で主観は極力取り除かれ、客観的に仮説を検証することに注力される。

そこへいくと芸術やデザインというものはあまり客観的指標がないように見える。
ファッションや音楽も同じ。何が流行るかわからない上に「流行りは時代によって繰り返される」などと言われ、過去に流行ったものがまた流行ったりする。
しかもその価値は流動的であり経時的に直線性を持って変動しているわけではない。所詮は、誰かが勝手に「これが良い」と決めた指針に従い、「数」という力を使って同じように「これが良い」という風潮を作り上げ、流されやすい人間を同調圧力の煙に巻いているだけなのかもしれない。そして、この流れに逆らう者がいれば、「わかんねーの?センスねーな」の一言で一蹴できるという鉄壁のシステムである。また、良いデザインを見て「センスがある」と評される場合がある。
この「センス」というのも定量的に定まらない直感によるものが多いように思う。
だから芸術もデザインもファッションも音楽も、信用に足る指標は無く、非科学的でブレがあり、真剣に学ぶには足らないものだと考えられてしまう。

と思っていたけれど、本当にそうだろうか。

というよりそもそも当然のように信じられている「科学」自体が信じるに足る、定量的で「科学的」なものだろうか。

個々の実験は定量的な指標により観測されたものではあるが、所詮はその時代の技術で評価でき得る客観的評価でしかないとも言える。つまり、時が経って新しい評価系ができたとき、新たな事実によって今まで定説だったことが覆ることも容易にあり得る。

これを科学的な「更新」だとするなら、先ほどのファッションの流行と何が違うだろうか。ファッションにおいても、昔の流行りが繰り返されるとはいえ、本当に寸分の狂いもなく同じものが流行っているわけではない。再帰された流行りをワンポイントとして、今あるものを改良しているという視点で見れば、これも一種の「更新」に他ならない。

また、科学においても絶対的な評価指標など無いのではないか。
いつだって論争は起こっているし、擬似科学なんてものは世の中に腐るほどある。教科書的な事実でさえ覆る可能性が無いわけではない。そういう意味では絶対に完璧にこれは科学的に正しいと言えるようなものはあるだろうか。

「擬似科学など信じる人間という非科学的な要素を含めるから科学に絶対的な正しさが無いように見えるのだ」と言う人もいるかもしれない。もちろん、科学的な知見に乏しい人間が絡めば、大きく非科学に傾くことは考えられる。しかし、科学自体は人間がいなければ、そもそも成り立つものではない。なぜなら、「科学」自体が、自然にある現象を人間が勝手に評価し出した代物に過ぎないから。ある日突然自然界で発生したものではなく、あくまで人間が考えたものであり、人間の営みである以上、「人間の関与さえ無ければ」という話は存在し得ない。

センスというものに定量性がないか、というのももしかしたら「今のところは」ということかもしれない。人が良いデザインや音楽に触れて「良い」と感じて心が動く現象を、ただ単に今の科学では言い表せないから非科学だと評しているだけではないか。私は専門ではないので全く知らないが、そのような心の機微や脳の活動について研究している人も多くいるだろう。まだまだ未知な部分が多い人間の「心」について新たな知見が得られれば、改めてセンスというものを定量的に評価できる可能性が出てくるかもしれない。それこそ、新しい装置で科学的な新発見をすることと何ら変わらないのではないか。かつて心霊現象と呼ばれていたものが科学によって解き明かされたのと同様に、芸術分野における科学的指標というのも出てくるかもしれない。それを味気ないと思うか、公正な評価ができるようになったと思うかは人それぞれだろう。

芸術は科学的ではない、ということを出発に色々考えてみると、そもそも科学的とはどういうことか、「科学」自身も科学的と言えるだろうかという謎の思考に陥ってしまったが、データとか科学という言葉を安易に持ち出して芸術やファッション、音楽などを鼻で笑ってしまうのはいかがなものかと思った次第。良いものに出会って心が震えるような体験を科学的に示すことができるようになる日がいつか来るのだろうか。

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