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お風呂場の話。

「ガコォォンッ!!!」という大きな音がして、振り返るとシャンプーの最中、頭が泡泡になったYさんがカランの前でひっくり返っていた。

「えっ(死んだか!?)」と思い、すわと湯船に立ちすくんだ私もまた素っ裸だった。

泡まみれのYさんはよろよろと右を振り返り、そして左を振り返ったところに私が呆然と突っ立っていた。

目を見合わせると、Yさんは唐突に大きな声で「ハッハッハッ!!!!」と笑い始めた。

「え、なっ、大丈夫ですか!!?」と、取るものもとりあえず声は掛けてみたものの、Yさんはなんかずっと笑っているので、まあいいかと思った。

(おしりを洗おうとして泡ですっころんだらしかった。)

***

Yさんは声がでかい。

今回の参加者の中でもずば抜けて声がでかいので、大勢で同じ言葉を喋っていても、聞いているとすぐにYさんの声だと分かる。

日程も終盤に近づいたある日、ずっとトレーニングを見てくれているコーチから「たしかにYさんの声は大きい。しかし、果たして本当にその声でいいのだろうか」というサジェストを貰っていた。

「果たして本当にその声でいいのだろうか」というそれは、禅問答とも思える難問に思えた。

舞台で「一声・二顔・三姿(舞台役者はまず声ですよ)」とはよく言ったものだが、声はただでかけりゃいいってものではないということについて、私はしみじみと考えを巡らせた。

***

お風呂場でひっくり返って爆笑していたYさんだが、思えばこのお風呂場へ向かう廊下で私はYさんとばったり行き合わせたのだった。

「ああ、Yさんがいるな」と思いながら脱衣所で服を脱ぎ、お風呂場へ向かったのだったが、Yさんはしばらくお風呂場へ入ってこなかった。

来る時、小脇に洗濯物を抱えていたので、洗濯を済ませたり、あるいは終わった洗濯物を取り出したりしているのかなと思っていたが、後に体を流して湯船に入ってきたYさんから話を聞くに、どうやら脱衣所に二台あるうちの一台の洗濯機の注水があまりにも遅いので、洗濯物を入れて蓋を閉めたものの、ちゃんと運転しているか不安になって停止ボタンを押したりして蓋をこじ開けたりして洗濯機の中を確かめていたらしい。

たしかに私も頭を洗いながら、家電を叩いたり蓋を開けようとする「バンバン!!」という音が聞こえた気もする。

言われてみれば確かに、お風呂場へ入る時かたわらでYさんが服を脱ぎかけながら洗濯機を操作していたような気もするが、気がかりなのはその時Yさんが素っ裸で、白いマスクをしていたことだった。

こんなご時世なので抜かりなく感染症対策、ということでみんな宿舎の中でも基本的にマスクを着用していたものの、お風呂場の脱衣所でまでマスクをするかどうかというのはもう個人の良心の問題で、その点きっとYさんは正しかったのだと思う。

脱衣所で他の誰かと居合わせる可能性もなくはない。

万全の感染症対策を、と考えながら、しかし素っ裸に白いマスクという佇まいで洗濯機を叩いている男というのはいかがなものかな、とすこし思った。

***

「だから、松本さんとお風呂で居合わせて気まずいなとか、だからすこし入るタイミングをずらそうとか、そういうことではなかったんです。決して気にしないでください」

とYさんは気を回して言ってくれたのだけれども、そのこまやかな気遣いとは裏腹に、私にとってこの人は参加者の中でずば抜けて声が大きいのに「果たして本当にそれでいいのだろうか」という禅問答のような疑義を呈され、脱衣所で素っ裸にマスクという出で立ちでひとり洗濯機をぶっ叩き、その後お風呂場で泡塗れになりながらひとりでひっくり返ったのち豪快に呵呵大笑していた人なのだった。

ひとりの人の中にキャラが渋滞していた。

「気にするなという方が無理だろう」と思いながら、しかし話してみるとたしかに愉快な人で、「大丈夫です、ぜんぜん気にしないですから」と相槌を打ちながら、広い広い浴槽の中でふくらはぎを揉むのだった。

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