※ネタバレあり 「君たちはどう生きるか」を見た感想

話題の映画を見てきました!!!
以下ネタバレと批判があり〼!!!







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正直言って、意味ありげなタイトルやプロモーションの仕方から期待したものではなかった。今までのジブリ映画となんら変わらないと思えた。
あの宮崎駿がこの期に及んで、行きて帰りし物語を展開しただけ???(しかもセカイ系的なものまで含めている)
観劇後時間をおいて思い出して考えてみたけど、どうしても作品からメッセージを受け取ることができなかった。

アニメーションはすばらしい。冒頭眞人が着替えるシーン、階段を駆け上がるシーン、ああ、ジブリ作品だと惹きこまれる。その他どんなシーンをとってもアニメートの出来は世界最高峰だと思う。火事のシーンの演出も見事だと思った。久石譲のピアノ劇伴もすごく素敵だった。今までのジブリ作品のオマージュと思しきカットもいくつかわかってニッコリした。だけど、言ってしまえばそれだけかなと思った。

評論家の宇野常寛が提唱した「母性のディストピア」という概念がある。

戦後サブカルチャー史の総括的な批評で、宮崎駿評を含むアニメ評論も含まれている。(とてもおもしろいのでぜひ読んでみてください)
母性のディストピアを自分なりに説明すると、戦後、民主国家として歩みだした(歩むことを強制された)日本社会において、市民社会は男性に「父」であることを要請するが、(実質的にアメリカに主権を奪われて)父になれないのに父であることを演じたその代償は家庭内の対幻想(妻、娘、あるいは母)に押し付けられる。その状態をして母性のディストピアと呼ぶ。
宮崎駿がその作品群で反復して描いたのは、母的なものの庇護下(母胎内と表現される)でのみ空を飛べる男性たちである。「肥大化した母性と矮小な父性の結託」による、(嘘できれいにした)母性のユートピアが宮崎駿の作品なのである。
(この作品にも眞人と同い年くらいのころの母親が出てくる)

「君たちはどう生きるか」は母性のディストピアを描いたものであるように思う。そして宮崎駿はそれを超克するするものを描かなかったのだと思った。
主人公眞人の行動原理は、そうあるべきだからそうするとしか感じられなかった。次の家長として求められる役割を演じただけにすぎないようにみえた。自分がそうしたいからではなく、「父さんの好きな人だから」新しい母を助けに行ったのである。母を火事で失った少年眞人が新しい母を受け入れるという心的な成長を描いたストーリーともみえるけど、それは母親を二度殺すことで成り立っている。最後の元の世界に帰るシーン、若かりし母はナツコに「元気な赤ちゃんを産んでね」と伝えて眞人たちとは別の扉からもとの時代に戻るが、これは現実の世界を選択したことの代償を母に押し付けているように感じた。徹頭徹尾母を犠牲者として扱っているようにみえた。これこそまさしく母性のディストピアだとおもう。物語の後にも眞人少年が戦後の動乱を生きるには家庭内の母を必要とすることがほんのりと読み取れる。戦後は現代に通じている。戦中戦後的精神を直接的な表現(兵器や戦闘行為)なしで、あらたな解釈なしに再提示したとみるならば、タイトル「君たちはどう生きるか」という問いかけ自体が空虚で、現状に対する訴求力をもたないようにおもう。というかこの映画から観客への問いかけなどなかったようにおもう。
あるいは、眞人がブロックを受け取って理想の世界をつくりあげるか、新しい母をつれて現実に帰るかの二択を迫られたことをして、理想の世界ではなく現実を生きろというありきたりなメッセージを受け取ることができるかもしれない。しかしその二択は物語として帰ることを前提としているので意味を成していない。

アオサギやインコはなんのメタファーだとか、このシーンはなんとかのオマージュだとか、これは宮崎駿の自伝なのだとか、自分が知らない演出上のすごさみたいなものはもちろんあると思うし、作品としては第一級だと思う。だけど、あの宮崎駿が、この時期に、こういうタイトルで出した作品としてみたとき、そこに通底する思想が一切目新しいものを含んでいないように見えたという点でがっかりしたというのが偽らざる本音である。

その他メモ

  • そうあるべきだからそうするという行動原理から逸脱したのはケンカのあと石で自分の頭を殴ったことだけ?終盤この傷は自分の悪意の象徴?だ、と言っている。

  • 今作には飛んでいる飛行機が出てこない。飛行機の部品は出てくる。代わりに飛んでいるのはアオサギやインコといった鳥である。眞人はそもそも飛ぼうとしていない?空を志向していない。飛ぶ以前の物語(父性を獲得する以前の物語)だからってことだろうか???


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