見出し画像

「定年女子」番外編⑦

色々落ち着かない日々、それでもボランティア絡みの外出やら自分の趣味の活動やらで気づいたら一週間外出が続いていた。
そんな少しばかり疲労感のある時には、ちょっと昔話を書いておこうかと思う。
正確には1989年8月、ヨーロッパ系の輸入商社に転職した。今日はそこでの始まりの4年間を書けることだけを書いておく。なんせ最後は事業部解散!私ひとりが他部門へ移動し、最後まで残っていた6名?程度は全て退職となったのだ。当時、1993年?バブルは弾け、超高級自動車など買える人もいなくなり、怪しい人に売ることもできず(当たり前だが)、不良資産ばかりが残り(これはその前の別会社だった頃の誰がこんなの買ったのだ的な者だったわけだけど)、ほぼ半年、そのような売るに売れないものを売るという使命の下に存在した感じだった。今となってはほぼ30年前の話だ。

始まりは、私が入社する前年らしい、私が入社した時には、別会社だった頃の人々は消えつつある頃で、ビジネスとして成り立たせるための幾つかのチャレンジが始まろうとしていた。そんな中で私の立ち位置はといえば、ショールームには出なくて良し!(これはポジティブな意味というより、ショールームはきれいなお姉さんが数名立つ、ということ)、電話対応もせず(こちらもショールームスタッフがお客様対応をするという…)、では何をするかといえば、受発注業務、ボスの秘書業務、本体管理部門との連絡業務、などなど。
最初に驚いたのが、事務的なベースが全くできていなかったことで、お客様データも含めファイリングをイチから整え、未だ残っていたテレックス機!を止めて、、、一から諸々を作っていったことを思い出す。
それでも九時から五時半、残業ゼロ!当初の一年?二年!は保育園との両立もスムーズにでき、落ち着いて働いていたのだ。
けれど、単年度黒字目標にはなかなか到達できず、ショールーム費削減が言われる中で、ショールームスタッフを減らすこととなり、結局私も表に出ていくことになり、当たり前だけど仕事量は増えていった。
営業関係の仕事の面白さはお客様と対峙できることだとは理解できたけど、なんせ安くない個性的な自動車を売るわけで、相手先もそこそこ個性的な方々で、現場の営業スタッフはそれまでのBtoBの営業とは全く違う緊張感や知識や技術が必要だったと今更ながら思う。
ここでの数年間、私はその後の何十年か働くための基本的なことを教えてもらったと思っている。報相連だけじゃなく、お客様に対してどうあるべきか、何をどのように伝えるか、満足してもらう前に、不安にさせないこととは…、ビジネス的に言えば、安定的に売れるものを作る、それに加えて付加価値の高いもの売る、では安定的に売れるものとはこのビジネスにおいて何なのか…価格帯は、潜在的な顧客の層は、そこに対してどのように広告していくのか、などなど。ふっと浮かんだ言葉だけでも色々あるのだけれど、毎月出てくる月次レポートをボスと確認しながら、翌月に向け、その先数か月後、一年後、と考えていく作業はなかなか刺激的だった。

そんな状況の中、ショールームをサービス部隊と同じ場所へ移動させ、出来る限り固定費を削減し、数年後やっと単月黒字が続けられるようになった矢先、会社のトップが突然辞めた(正しくは解雇されたのだ)。
バブリーな時代のバブリーな商品群、それ以上に出せば売れる、が通じなくなった世界で、販売手法が上手くなかったのだろう、と今は考えている。
こういう時いわゆる外資系(当時のと書くべきかもしれない)は凄い、その発表が出た瞬間にトップは帰国した。そしてそのトップが兼任していた事業部(私が所属していた)も、解散!の決定が下されたのだ。
この時ほど外資って恐ろしいな~と思ったことはない。
「えっ!私どうすればよいでしょう……」ビジネスにも未練があったし…とりあえずは他の部署への移動の可能性があるという情報も出され、まずは敗戦処理のような作業を続けながら、他部門の見学やら社内面接に出かけた。
営業や技術は、それぞれ転職活動をし夏が終わる頃には無事に新しい職場へと転職していった。

私は、その後次の部署、「外国製の機械を日本に売る」部門へと移動することになったのだが、その時の社内面接は今でも忘れられない。なぜかといえば、バブリーな部署での仕事についてはひとことも聞かれず、それ以前の電子部品メーカーでの業務について質問されたのだから。
社内では、すべてが黒歴史のように消されてしまった、そんな気がした。
栄枯盛衰、無常な世界、
移動後の話は次回に譲るが、この秋から冬、私の体調は絶不調、診察を受けたら自律神経失調症!といわれてしまったのだ。
結構長い不遇?、いや子育て優先!の時代の始まりでもあった。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?