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4.初めての聖書の御言葉

 (3.から続く)さて、意を決して教会を訪ねた私でしたが、牧師先生の前にし、何からお話ししたものか・・・。
 とりあえず、話を取り繕うために自分が大学生のときに、男声合唱団で歌っていたこと、ヘンデルのメサイアもクリスマスに歌ったことがあること、前の年のクリスマスに教会の皆さんが歌っている姿を見たことなどを話して場をつなぎました。

 牧師先生は、あくまでリラックスさせる雰囲気を造ってくれていたので、そんなことをしばらく話しましたが、次第に自分でも、「そんなことを話に来たわけではないよなぁ、こんな話をするために夕方わざわざ訪ねて来る訳ないよなぁ、変だと思われているよなぁ・・・」と居心地の悪さを感じてきました。

 そこで、意を決して、なぜ教会を訪ねた本当のきっかけをお話しすることにしました。
 「実は仕事をクビになりました」と切り出し、そこからは、司法試験を続けてきたこと、就職することができたこと、短い期間でクビになったことを、これからどうしたらいいかわからず、今日来させてもらった、ということをお話しし、牧師先生は、唐突な話であるにも関わらず、穏やかに私が語ることに、ただ耳を傾けて下さいました。

 私が一通り話し終えた後、牧師先生は、一緒に聖書を開いてみましょうか?と詩篇37編23節からを示されました。
 そこには、「人の歩みは主によって定められる。主はその行く道を喜ばれる。たといその人が倒れても、全く打ち伏せられることはない、主がその手を助けささえられるからである。」と書かれていました。

 この御言葉を読まれた後、牧師先生は、私を静かに見つめてこう言われました。「あなたは今、大変な想いをされているけれど、神様のもとにその大変さを持って行くという、一番良い道を選んだんですよ。」と。

 職場でクビを告げられたとき、その後の悩み苦しんでいたとき、涙は一滴も流すことはありませんでした。きっとそれは、「落ち込んでいてはダメだ。」と自分を奮い立たせようとしていた緊張感があったからなのでしょう。それはまるで、小さな杖を必死に握りしめて、何とか倒れないように身体を支えていたような感覚でした。
 この聖書の御言葉を聞き、今自分が置かれているこんな状況の中でも、それが良い道だと告げてくれる存在があると言われ、この緊張感がほどけ、私は涙が止まらなくなり、人前であることも忘れて、涙を流し続けてしまいました。
 それは、支えていた小さな杖を手放しても、大きな手が私を待っていて、その手に包まれるような不思議な感覚でした。

 牧師先生は、涙が止まらなくなっている私が収まるのを静かに待って下さり、その後、「また教会に来てみてはどうですか?」と誘われました。
 私はこの日から、日曜日の礼拝やユースの集まりに参加するようになっていくのでした。

 お話を聞いてもらえて気持ちも少し軽くなり、何より聖書から語られたこれまで経験したことのない言葉に勇気づけられ、勇気を出して教会を訪ねて本当に良かった、と思いながら教会からの家路につきました。
 そして、それまで司法試験を共に勉強していた知人の一人に、仕事を辞めたこと、今後どうしていくかは決めていない、ということを伝える勇気が出ました。

「人の歩みは主によって定められる。主はその行く道を喜ばれる。たといその人が倒れても、全く打ち伏せられることはない、主がその手を助けささえられるからである。」

(口語訳 詩篇37編23~24節)

画像は、きのぴーさんのものを使わせて頂いてます。

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