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両方ある



正解不正解ってないんだなーと改めて思う。
ホンモノニセモノもそうだなーと思う。




〈正解〉と出したら〈不正解〉も現るし、
〈ホンモノ〉と出したら〈ニセモノ〉も現る。




どちらか片方だけが世に在ることはないと思うから。

どっちも同じ量があるんじゃないかと思うけど…。

どちらもあっての世の中で世界が成り立っているんじゃないのかな。




居心地いいから、居心地よくないのを追い出したりしないでもいいだろうし、無くしたりしないでもいいのかなっても思う…。



あまりのアクは消え去るかと思うけど…〈悪〉=アク、にするとなんとなくしっとりしそうなそうでなさそうな😄?

アクも大切な味の部分てのもあるだろし。




自分の中で、
「この自分はとても居心地いいなぁ」は受け入れて
「この自分はすっげーやだなぁ」は
追い出す、無くす、排除する…ってのは自分を全体受け入れられていないってことだもんな。



そんな自分もいるよねー。
あんな自分もあるー。
見ないことにはならないよね。



片側だけに重心が向いているのじゃなくて、両方に向いていて、それがしっかり自分の中であるのがわかるから、水平の真ん中でいられるようになるんじゃないのかな?って思う。




⚪正解
⚪不正解
っていうことはそれぞれの感覚のことで。

ある人にとっては正解だろうけど、別のある人にとっては不正解である。



自分が「これだ。これがすんなりと行く。入る。受け取れる。」
のが言葉にしたら正解になって、
「なんかもや〜っとするな。スッキリしないな。入らないな。」のが言葉にしたら不正解になるんだと思う。


そしてその時々で正解とか不正解は変化していくから…なにがそうなのかは本当にわからないんだと思うな。



答えは自分の中にはっきりとある。
その答えを求めてそこに辿り着いて行きたいから、色んな経験をしているのかなーと思う。






🔹神もどちらかに寄りそうなことはあるだろうし…、真ん中に置いておける自であるように常に洗練しているんだと思う。

神も色々なんだから、人間も色々なんだよね。


どちらもあってどちらも磨き合って
受け入れながら、本当の自の中央にいられるようになるために行っている日々のコトなんじゃないのかな。





 🪷🪷🪷


最近、普段の作業が以前の様に手早く(自分の中で)進められなくなっていて、寒さで身が縮こまりがちなのもあるけど(もう少し手早く出来ていたのに…)と思う事があった。

❄今朝最低気温ははマイナス12℃くらい。マイナス15℃予報だったからそれから見ると少し高め。
寒いことは寒いけど〜。
昼間はマイナス5℃くらいまでなら、あったかいな〜と思う。あったかくはないけど😅

寒いと手を合わせて擦ることをよくしている。指爪横揉みもしたり指反らししたり。❄




作業が手早く出来ていたけど・・・そうならなくなってきたのは、
急行列車にもう乗らなくてもいいんだって感じた。



駆け抜けた期間は終わったんだ。
これからはゆったり、ゆっくり、日々を歩んでいっていいんだ。
のんびりと生きていいんだ、と思いました。



駆け抜けていた時には気づかなかったものに。

ゆったり、ゆっくりとするようになると気づくもの、気づけるものがたくさんあります。



道端のお花やまわりの景色、行き交う人たち、、空の広さや清々しさ、鳥の飛んでる姿、鳴き声、、


徒歩や自転車に乗ると風も感じられる。温度や湿度、気が流れている場所、滞っている場所、自然からの囁き等、面白いです。



ゆったり、ゆっくりすると。それがもっと広がり奥行きも出てくる。



どこかに行っても、どこかに行かなくても。




これまでは自分の動きを制して向かう場面が多くあったので(自分でそれを設定していたんだけども🥹)
つい自分を制してしまいそうな余韻があるとは思うけど…



終えた役目に引っ張られないようにして、自分のことを夢中に生きたいと思います。



霊と体と、共に仲良く交じりあって生きていくのが一番のよろこびだと感じるから。その様にしていこうと思います😊



自分がどう肉体とシンの自分と分け隔てなく一緒になって道を歩んでいけるか…ってのをやりに、また人間として地球に来たんだと思うから。。



楽しんで生きます🥰












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